「ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明」に触発されて
<IDEAジャパン代表 森元(もりもと) 美代治(みよじ)
全患協「らい予防法」廃止に向けての取り組み

 一九九一年、全患協(全国ハンセン病患者協議会、現・全療協)は三度目の「らい予防法改正要請書」を国に提出しました。それは一部改正であり、全廃の結果を不安がる多くの入所者の意見を集約したものでした。
 これに関して国は厚生大臣諮問機関として、元厚生省医務局長の大谷藤郎先生を座長にして、「らい予防事業対策調査検討委員会」を設置して協議し始めました。私が一九九三年八月に多磨全生園入所者自治会会長(多磨支部長)に就任した直後、大谷先生が個人的見解として予防法全廃論を発表しました。これは十三の国立療養所を震撼させるビッグニュースでした。
 全患協は早速、臨時支部長会議を開いて協議しました。当初は駿河、長島、奄美の三支部が反対でしたが、奄美支部は私が説得し、最終的には賛成に回りました。協議体である全患協が初めて十一対二の多数決で決めた「らい予防法」廃止問題でしたが、全患協が分裂寸前の危機に追い込まれる場面もありました。
 

大谷派との出会い

 このように紆余曲折を経て、一九九六年四月一日に「らい予防法廃止法」は施行されました。達成感と開放感に一息ついている頃、真宗大谷派からの「謝罪声明」が私宛に送られてきました。クリスチャンである私には縁もゆかりもない宗派からの書簡は青天の霹靂で、十二名の中央委員全員に読んでもらいました。その驚きと感動に興奮していた自分を昨日のことのように覚えています。
 間もなく、存明寺住職の酒井義一さんが私を訪ねてきました。初めての出会いでしたから、「酒井先生」と呼ぶと、彼は「先生ではなく、森元対酒井でお付き合い願いたい。先生と言ったら罰金をいただきますよ」とのことで、以後は「酒井さん」「美代治さん」の間柄で親しくさせてもらっています。
 その後、関東地区をはじめ北陸、信越、東北地区のハンセン懇の若いお坊さんたちが次々に全生園を訪問して、門徒さんだけでなく、宗派をこえて自由に呼びかけてくれるので、私たち夫婦はほとんどの交流会に参加させてもらいました。私が所属するカトリック教会の先輩たちからは、「森元は大谷派の隠れ門徒か」などとからかわれることもしばしばでした。
 

宗派の壁を超えて

 どこの療養所でも、例えばキリスト教ではカトリックはカトリックで、プロテスタントはプロテスタントで、聖公会は聖公会で、また仏教では真言宗は真言宗で、真宗は真宗で、日蓮宗は日蓮宗で、という具合に同じ宗派の信者間の人間関係は濃密で堅い絆で結ばれているのですが、長い歴史と習慣によって、異なる宗派間は、ちょっとした壁で隔たれているのが実状です。その壁を払拭したのが大谷派のさまざまなイベントではなかったかと思います。
 私ども夫婦は、九七年に始まった真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会に参加して以来、皆勤者はわが夫婦だけとのことで、大いに誇りに思っています。七八歳になった私ですが、体力維持に精進し、この交流会が続く限り皆勤でいたいと願っています。
 

国を問う―ハンセン病国賠訴訟

 九八年の第二回交流集会で忘れられない出来事がありました。同年、熊本地裁にハンセン病国賠訴訟が提訴され、六十名を超える入所者が集会に参加してこの訴訟について協議した結果は、否定的で賛成できない、というものでした。
 ところが、玉光順正先生が講話の中で、「大谷派はこの裁判を支援しないのなら二度大きな過ちを犯すことになる」と熱っぽく語られました。その時、私の心奥に沈殿していたもやもやが燃えるような衝動に駆られたのを今でも覚えています。総合司会の酒井さんが突然私を指名し、まとめの一言を、と言うのです。一瞬戸惑いましたが、次のようにコメントしました。「裁判に加わるか否かは個々人の自由裁量によりますが、裁判を起こした仲間の足をひっぱるようなことだけは止めましょう」。これは私自身を叱咤激励し、鼓舞するつもりだったのかも知れません。最終的には三千人を超える原告団となったのも大谷派の後押しがあったからだと思っています。
 この全国交流集会に参加したカトリックの支援者の皆さんが大谷派の諸活動に刺激され、「ハンセン病問題を考える有志の会」を十年前に立ち上げました。駿河、多磨、栗生の三園を訪問し入所者との交流、東京教区、横浜教区、埼玉教区の信者対象の学習会、本年創立百周年を迎える韓国小鹿島療養所の訪問ツアーの計画等、細々ながら歩み続けています。
 

「願いから動きへ」

 大谷派集会のテーマの一つである故郷・家族について、全生園入所者自治会会長の佐川修氏によると、この二十年間の物故者四百名の内、七十名以上の方々が実家のお墓に入れてもらったとか、家族のこのような動きが顕著になりつつあるとのことです。また社会の片隅に隠れて生きていた家族六十名が原告となって、遺族訴訟をひと月前に熊本地裁に提訴しました。これら一連の出来事は、大谷派集会の根底に流れる「願いから動きへ」のハンセン病の世界が前進しつつある証ではないでしょうか。
 
森元 美代治氏
1938(昭和13)年、
鹿児島県喜界島生まれ。
IDEAジャパン代表。自身も元患者としてハンセン病の啓発活動・国際活動に尽力する。
元ハンセン病全国原告団協議会事務局次長。
■『証言・日本人の過ち―ハンセン病を生きて 森元美代治・美恵子は語る』藤田真一編著・人間と歴史社、1996年。
 

《ことば》
ぜひここで何があったのかを知ってほしいのです。
知ったあなたたちに事実を伝え続けてほしいのです。

 ある療養所に入所されているハンセン病回復者の方の言葉です。この言葉から、私のハンセン病問題に対しての常日頃の関わりや取り組みの中で、回復者の方たちの願いにどのように応え続けることができるのかという「課題」が見えてきた。その「課題」とは、ハンセン病問題の事実や現実を正しく後に伝え続けていくということだとあらためて気づかされた。
 私たちの宗門は近代の強制隔離政策の中、「ハンセン病は怖い」と恐怖心をあおり、一方で「療養所は素晴らしい楽天地」と喧伝し、療養所の中では宗教的意味づけをして入所者に隔離を受け入れさせる役割を担ってきた。
 私たちはこれまでの過ちに立ち返ることが大切だ。人間を差別し排除し続けてきた事実や歴史を伝え続けることで、回復者の方々の願いに応え続けなければならない。私は、この問題に対しての取り組みは、決して終わることなどありえないことだと思う。
(北海道教区・酒井 智)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2016年4月号より