各園における真宗同朋会の歴史①
国立療養所星塚敬愛園

<鹿児島教区 星塚寺院に集う会会員 寺本 是精>
寺院の建立

 「もしそれ何時寿命が終わるかもしれませんので、その時は皆様によりて、よく相談して下さいまして、星塚寺院をお守り下さいまして、一人でも念仏を心から喜び合う場所たらしめて下さいますよう、お願いいたします。合掌 昭和三十七年一月十八日午前三時三十二分 山中五郎 印」
 
 遺言書である。亡くなる一月程前に書かれている。今は大書されて、星塚寺院の本堂正面脇に掲げられているが、セピア色に変色したそれが歴史を物語る。山中五郎師は長崎県出身、一九三七年四十四歳の時に、鹿児島県鹿屋市星塚敬愛園に強制収容された。園設立三年目のことであり、無らい県運動が熾烈になっていく頃である。
 山中五郎師は人望が篤く、入園当初より自治会の前身である入園者総代を任されたり、自治会活動に専念したりしていたが、ある時一念発起され、すべての役職から身を引いた。その後は、青少年時から篤信の親に連れられての寺参りの仏縁が重なり、すでにあった種々の信者が集う礼拝堂(宗教会館)ではない、「真宗信者だけが集うことのできる御堂、大きな声でだれることなく念仏を称えられる聞法道場」の建立を発願された。後遺症の残る不自由な手でペンをとり、コピー機もない時代に千通にも及ぶ懇願書を東西本願寺をはじめとする縁者に書き送ったことは有名な話である。(本誌二〇〇九年八月号参照)
 幾多の困難を乗り越え、志願は実り、一九五七年四月、星塚寺院は落慶式を迎えた。そして、星塚寺院を支える信者の団体を真宗同愛会と〝称した〟。
 その時の喜びを山中五郎師は、敬愛園機関紙『星光』に「無の処に有が生れる不思議である。仏教会館(星塚寺院)は無の処に有となって生まれた。─略─真宗同愛会六百名の長い間の念願は遂に果たさせていただきました。病弱な会長として至らぬ私に対し、心から協力して下さった会員一人一人に対しても厚く感謝いたします。慚愧合掌(一九五七〈昭和三十二〉年五月二十日発行)」と記している。
 そしてさらに、募金活動に関しては「だが社会から浄財をいただくことは容易な術ではなかった。いつか血が逆流して骨が冷たくなって痛む思いがした」と困難さを吐露し、そうした末に悲願は結実したと述べている。
 しかし、幾星霜、年月は過ぎた。先に〝称した〟と書いたのだが、三年前の二〇一四年四月、真宗同愛会役員・会員の高齢化に伴い会員の人数が減り、日常のお給仕の不徹底や月例会開催の困難さ、参詣者の激減など諸々が重なって、園内で最も古い歴史を持つこの会は解散という選択をせざるを得なかったのである。
 

皆様によりて—言葉にまれる

 「言葉に捉まれる」ということがある。「皆様によりて」という言葉に捉まれたのはいつの頃であったのだろうか。皆様か? 皆様には在園者だけではない、「加害責任を問う」私も、私たちも含まれる。山中五郎師五十回忌法要(二〇一一年)を勤めた後、「星塚寺フォーラム」というグループを立ち上げた。発会式には三十数名が集った。メンバーは東西本願寺の僧侶、教職員、市議会議員、市民等である。敬愛園星塚寺院を場として集い、それぞれが抱くテーマに応じて何でも語り合える場として、とにかく星塚寺院に集う、季節ごとに一回・年四回をコンセプトにした。そして何よりも、強制隔離施設内にあった宗教施設としての星塚寺院の灯を絶やしてはならないという思いからの始まりであった。
 フォーラムには宗教者、元教員、親族に入園者を持つ方などが参加し、それぞれの問題提起・報告は内容も深く充実していた。しかし、フォーラム会員のほとんどが鹿児島市在住(熊本県からも時折参加)であり、片道でも車で二時間の距離である。三ヵ月に一回開催していた集いは、二年を過ぎた頃に休会状態となっていた。
 しかし、今冬再び「言葉」に捉まれたが集う縁が開かれたのである。今度は、さらに輪が広がった。三月末に一回目が開かれた。メンバーは鹿児島市内を中心に活動する「ハンセン病問題市民会議かごしま(星塚寺フォーラムの母体)」が中心となった。そこに人権問題をライフワークとする本願寺派の門徒(福岡県)、しんらん交流館での「いのちのあかし絵画展」主催者の一人(熊本県)、そして山中五郎師の孫で家族訴訟原告団長林力氏の息女(福岡県)が加わった。星塚寺院建立の祖である山中五郎師の志願に立ち、その志願を引き継ぐ。そのために、趣旨・目的・活動内容・規約等を築いていくことが確認された。
 二回目が五月九日に星塚寺院で開催された。先のメンバーに加えて、九十四歳となられた上野政行前同愛会会長、福岡県から本願寺派の僧侶二名が参加した。一人は昨年頃より元同愛会会員の居宅で法要を勤め、喜ばれているという。今一人は「ヤスクニ訴訟」に永年関わりを持つ方だ。そして鹿屋のNPO法人・ハンセン病問題の全面解決を目指して共に歩む会の代表、鹿児島県内本願寺派僧侶二名、大谷派僧侶二名であった。
 

星塚寺院のこれから

 この機会を星塚寺院問題を考えるラストチャンスと考える。/元同愛会会員の寺に対する思いを聞きたい。/寺の鍵が園に戻されて園職員との絡みも課題となる。現に寺の玄関には園からの注意書きが貼ってある。/山中五郎師の志願の相続が課題。/同愛会を再開できないか。園内外を問わず会員となれるような。/何らかの形で法人格を取得できないか。集い自体の法人化は。/近隣の宗教者らがもっと関わってくれないものか。/信者が不在になると園(国)は建物を廃棄するだろう、防ぐ手立てを。/ある宗教団体はすでに解散し扉も固く閉ざされている。/星塚寺院の将来を問うことが、全国の療養所の宗教施設等の将来を問うことに繋がる。/問題は建物か、同愛会か。/救済の場であったとする検証は。/隔離の中での解放・念仏とはどういう具体性があるのか。/星塚寺院の歴史と背景が一般寺院の在り方を問う。/過疎地の、ある一般寺院の廃寺問題とは質が異なる。/歴史遺産を生き生きとした場に。/国策としての一面もある。/加害・被害という側面をどう表現するか。/歴史に風化・埋没させない。/日常的な星塚寺院の運営が永遠の星塚寺院の歩みとなる。等々の意見や主張が出された。
 
 会の名称は、「星塚寺院に集う会─真宗同愛会の願いに立つ(仮称)」。叩き台を基に在園者に対しても私たちに対しても共通する設立趣意書が「よく相談して(遺言書から)」吟味された。活動目的としては、
①宗教宗派を超えて多くの人が出会い、交流を深め、いのちの尊厳を心に刻むことに資するに足る講演会、学習会、音楽活動等のイベント、フォーラム開催の場として「星塚寺院」に集う。
②寺院建立に関する経緯や建立後の寺院にまつわる事柄についての証言、記録文書、写真、図絵などを蒐集し保存する。
③寺院内での法要を営む僧侶ネットワークを作り、元同愛会会員たちとの念仏の縁を日常的に築いていく。
④寺院の清掃・整理作業を行う、等が大まかに了承された。
向後、元同愛会会員や主に九州内で活動する縁を持つ様々な方たちに案内を発信し、星塚寺院に今一度、本願念仏の灯を点していきたい。
 「皆様によりて」。この言葉に捉まれた人、元同愛会会員も私たちも、まだまだ外にも多くの方の思いのあることだろう。歩みは、今、始まったばかりである。正式な準備会を兼ねた設立総会を、本年十月十一日午後二時に開催の運びだ。願いを共有する「皆様」の参加を期待したい。場所は鹿児島県鹿屋市、星塚寺院である。
 
*表題の短歌は、ハンセン病国賠訴訟第一次原告であり、前真宗同愛会会長の上野政行さん作。短歌集『川の瀬の音』(ヒューマンライツふくおか)に所収。
*二〇〇九年八月号も併せてご覧いただければ幸いです。

 
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2017年7月号より