ハンセン病問題に取り組んできた
大谷派の歴史を振り返り、
課題を共有するため、
ハンセン病問題に関する懇談会委員から報告いたします。
<ハンセン病問題に関する懇談会委員・第五連絡会チーフ(長崎教区) 清原 昌也>
一九四五(昭和二十)年八月九日十一時二分、長崎の上空で原子爆弾がさく裂しました。まさにその時、直感的に危険を感じた少年は、海水浴中、海の中に潜って難を逃れたのです。去年偶然にも、菊池恵楓園で出会ったその方は、長崎出身であることを私に告げ、その時の体験を語ってくれました。当時中学生で、病気のため学校には行けず、一人海岸で遊んでいたそうです。その後、療養所に入ったということですから、原爆被爆者手帳(一九五七〔昭和三十二〕年四月原爆医療法制定)の交付は受けていないと考えられますが、その方は明らかに被爆者の一人です。「被爆の影響か、禿げた頭がかゆい」と、豪快に笑っていたのが印象的で、長崎の原爆とハンセン病の問題がこのようなところで関係してくるとは意外でした。私が語った懐かしい故郷の地名と風景の描写により、とても喜んでもらえました。
しかし、懇親会で意気投合した中でも、ビールで満たされたコップを私に差し出し、「俺のコップで飲めるか。飲んでみろ」と言われたのです。この言葉の深さこそ大切な部分だと思うのです。
長崎の地に生まれた私は、小学生の頃から平和学習として、夏休み中の毎年八月九日の登校日に原爆や平和についての話を聞いてきました。また、小学一年生の時の担任の先生も被爆者で、私が五年生の時に原爆症でお亡くなりになりました。長崎教区の最重要課題である「非核非戦」平和集会にも中学生の時から参加しているので、私にはずっと関わってきた自負がありましたが、被爆二世である仏青仲間からの一言が、念仏と真剣に向き合う大きなきっかけとなりました。それは、「夏になると、戦争、原爆、被爆の話がよく語られますが、被爆者は、三六五日被爆者なんです」という言葉でした。どれだけ学んでみても、体験談を聞いてみても、私は被爆の当事者ではないのだということが突き付けられました。
社会問題には様々な問題がありますが、私は何かの力になることができているのか。何もしないよりはまだいい、わかっていて無視するよりはるかにいい、というレベルが本当のところで、三六五日いつでも考えているわけではありません。都合のいいときだけ問題に取り組んでいるという感覚が、私にはあります。
昔、酒に酔った弟が、兄を殺してしまったという事件の葬式に行ったことがあります。残された母親は、悲しみをどこにもぶつけることができず、「殺したのも、殺されたのも、私が育てた子どもです。私の育て方が悪かったのでしょうか」とつぶやきました。あの時の言葉は、今でも心に刺さっています。被害者が加害者に極刑を望むシーンが報道されることもありますが、悲しみが憎しみに変わった姿は、痛ましいと同時に見るのがつらくもあります。当事者の心情を考えれば、同調してしまう部分もありますが、この時、加害者家族のことは考えに入ってはいません。
長崎平和祈念像に供えられた花を、被爆者が引きずり下ろし踏みつけるという事例がありました。米軍の関係者が贈った花でした。それをしたのは、平和な世界を願って活動されていた被爆者の方でした。
戦争の悲惨さ、差別の醜さ、人が人を殺し合い、人が人を罵り合う。何人もの方から体験談を伺いましたが、それはどれも、当事者の苦しみから湧き出してくる言葉でした。私には、「経験した自分にしかわからない苦しみだ」と言われているようにも聞こえたのです。
平和を訴え続けた元長崎市長の本島等氏は、「戦争の悲惨さをどれだけ訴えても平和にはならない。「絶対的なゆるし」しか平和への道はない」という内容の講演をされました。熱心なカトリック信者である彼だからこその表現だと思い、感銘を受けました。しかしそれと同時に、「絶対的なゆるし」は私にはできないとも思いました。彼が言うのは、「神のゆるし」でしょう。私が表現するなら、「念仏しか救いがない」でしょうか。
私たちが社会問題を学ぼうとする時、問題の解決を最終目標に考えますが、問題にふれて、わが身の真実の姿を知り、この身とどう向き合うかということを抜きにして当事者と出会ってはいけないのでないかと、私は思うのです。
「長崎の「非核非戦法要」は、仏事である」と、亀井廣道氏(長崎教区萬行寺前住職)はおっしゃいました。多くの犠牲者の供養に留まるのではなく、この問題から仏の教えを聞く一人の私になる、ということではないかと思うのです。心を切り裂かれるほどの痛みによってしか気づけないものがあります。一万とも二万とも言われる遺骨を前にしなくては、法要は始まらなかったでしょうし、今まで続くこともなかったでしょう。
《ことば》
「一期一会。その時、その場を大切に、楽しく過ごしたい」
鈴木幹雄さん(真宗同朋会会長)
「真宗の皆さんと出会い、その時、その場を大切に、楽しく過ごしたい」と、今年長島愛生園で開催された三園合同花見で、鈴木幹雄さんがあいさつされました。
入所者の皆さんは、いつもにこやかに温かく、私たちを迎え入れ、膝を交えての交流会が行われています。私にとって、当たり前の光景なのですが、ある方が、「私が初めて交流会に参加した時は、訪問者、入所者と左右に完全に分かれていた」と、お話しくださいました。一九九六年に「らい予防法」が廃止される以前より、諸先輩方が同朋会に参加され、ハンセン病問題を共に考え、交流を続けてきてくださったからこそ、同朋としての関わりが生まれ、今のような交流会に繋がってきたのだと、考えさせられました。
入所者の方も、ご高齢になってきておられます。「また、会える」のではなく、その時、その場は、一度だけ。何もできないけれど、限られた時間を少しでも多く、共に過ごしたいと思っています。
(大阪教区 辻岡 妙)
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2018年11月号より