ハンセン病問題に取り組んできた大谷派の歴史を振り返り、
課題を共有するため、ハンセン病問題に関する
懇談会委員から報告いたします。
<ハンセン病問題に関する懇談会委員・大聖寺教区 飯貝 宗淳>
八年前、教区の先輩からハンセン病療養所への訪問交流研修会に誘われました。当時、ハンセン病やその問題について全く知らなかった私は、その研修会の前に他教区でハンセン病回復者を講師に講演会があることを知り参加しました。それが、私にとってハンセン病問題との初めての自覚的な関わりでした。
その時はメモを取ったものの話の内容はほとんど覚えていません。ただ、付き添いの方の、「講演会場から遠くないところにごきょうだいが住んでいるので、会いに行ったらどうかと勧めるのだけれど、(講師は)会いには行かない、と言われる」という言葉が特に心に残りました。なぜ会いに行かないのか、会いに行けばいいのに。当時の私はそう思っていたように思います。会いに行けない理由がどこにあるのか、想像すらしていませんでした。
振り返ってみると、初めての療養所訪問においても、私はハンセン病について「解る」ということを目的にしていたと思います。居室訪問や懇親会でも、「何を話すか」より「何を聞くか」を考えていたようです。そうして、ハンセン病回復者を「理解」しハンセン病とその問題について「解ろう」としていました。
そんな中、同じく初参加だった私の妻が、懇親会の時、回復者の口から垂れるよだれを、当たり前の様に自分のハンカチで拭いてあげていたのを見て、非常にショックを受けたことを覚えています。病気の後遺症で口が開いた状態になり、自然とよだれが垂れることがあります。それを拭いてあげることが、相手にとって良いことなのかどうかは今もよくわからないのですが、私は目の前にいる人のことを全然見ようとしていなかった、そのことを見せつけられたように感じました。
あれから八年がたち、自分なりに交流や学習の中で回復者の方やその言葉にふれて、ハンセン病の回復者のことを「理解」しようとするということが、どれだけおこがましいことであったかは解った気がしています。
以前、大谷派ハンセン病問題全国交流集会で出会った回復者の方から、「国立ハンセン病資料館の展示写真の中に、昔の自分が写っているものがある」と教えられ、観に行ったことがありました。後に、そのことをお伝えしたところ「写真の、あの頃は懐かしいけれど、辛かった思い出もあるから…でも、これも私の人生だから」とのお返事をいただきました。すごい言葉だと思いました。ハンセン病という病に苦しめられたという恨みや愚痴ではなくて、それによって受けた苦しみやいろんな経験も、すべて代わりがきかない私の人生の一部なんだという言葉です。誰もが同じく生まれて、かけがえのない人生を一生懸命に生きておられる。至極当たり前のことなのですが、そのことがなかなか解らなかったのです。私のハンセン病問題との関わりは、その人生の一端に、かろうじてふれることが、あるかないかぐらいなのが実際だと思います。
現在、熊本地方裁判所にて「ハンセン病家族訴訟」が係争中です。その中で、あらためて八年前にハンセン病問題に初めてふれさせていただいた、あの講師(回復者)の方のことが思い出されます。その後の八年の間に、ごきょうだいに会えたのかどうかはわかりません。しかし、当時とは違って、家族訴訟や黒坂愛衣さんの著書『ハンセン病家族たちの物語』(世織書房)を通じて、家族の人たちの声にふれる中で、家族もまた肉親との分断や偏見差別の中を生きてきた人たちであることを知りました。黒坂さんは本の中で「ハンセン病であった本人と《家族》との関係性の回復は、それ単独でなされるものではけっしてなく、おそらくは、まわりの人びととの関係性の回復や、自己との関係性の回復と、一体のものとしてあるのだ」と述べています。そして、家族の裁判を通して国に謝罪を求めることは、「全体としての関係性の回復へむけた願いでもあるのだ」とも。ここにハンセン病問題における当事者としての私の責任が問われているように思います。
私の地元にはハンセン病療養所はありませんが、年配の方とのお話の中で、「幼少期にはこの辺りにもハンセン病の人はいたし、差別もあった。怖かったし、正直今も怖さはある」と、お聞きしたことがあります。私が知らないだけで、身近にハンセン病家族の方はいるのだろうと思います。そういう中で今私にできることは、有縁の方と家族訴訟について話題にし、ハンセン病問題の当事者とは誰かと、共に考えていくことだと思っています。
《ことば》
人間にとって、とりかえしのつかない被害だった
— (ハンセン病家族訴訟原告団副団長)—
黄さんが一歳の時、母親がハンセン病と診断され長島愛生園に入所。黄さんは岡山の養護施設にあずけられ、その後に退所した母親と一緒に暮らし始めたのは九歳の時でした。黄さんは母親との関係をうまく構築できず、二〇〇一年に母親が亡くなるまで「他人にしか見えなかった」そうです。
なぜ自分は母親と上手く関係を結べなかったのか? 友人たちの様子を見ていると、母親と喧嘩はしても、他人行儀なよそよそしさはない。ハンセン病家族訴訟の中で、黄さんがあらためて気づいたことは、普通なら親に無条件に甘える幼児期の八年間を奪われたせいではなかったかと思い至ります。黄さんはこの被害の深刻さに気づかれ、それを「人間にとって、とりかえしのつかない被害だった」と語られます。
ハンセン病回復者の家族の被害は、個別でそれぞれ違います。被害を受けた人が被害だと自覚をもつことができない被害がある。黄さんが語られたこの被害もまた、深刻な被害なのではないでしょうか。
(京都教区 谷 大輔)
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2018年8月号より