「お大事に」という喚びかけ
(松下 俊英 教学研究所助手)
先日、朝の慌ただしい中、机に左足をぶつけてしまいました。痛みはすぐに治まると思ったものの、激しさが増していきます。整形外科に行くと、お医者さんは、レントゲン写真を眺め「親指が骨折している」と一言。より痛みが増しました。──出会う人に事の顛末を伝えると、あたかも自分の身の上に起こったかのように同情し、「お大事に」とあわれみのお言葉をかけて頂きます。
同情やあわれみ、あるいは慈悲の訳語としてcompassionという英語があります。鈴木大拙先生が『教行信証』を英訳する中、弥陀の大悲をgreat compassionと翻訳されていることでも有名です。ラテン語の「共に(com)苦しむこと(passio)」を語源として形成されたということを考えると、慈悲というのは「共に苦しむこと」が無ければ起こることはあり得ないと見ることもできます。
compassionという語を重視された児玉暁洋先生は、『歎異抄』第四条における浄土の慈悲について、「相手の苦しみを自分の苦しみと感ずることができる心、相手をあわれむ心ではなく、相手と共に苦しむ心」だと了解されています(『児玉暁洋選集 第一巻』第三章「・いのち・を喚ぶ声」、二〇一七年、法藏館、一七〇頁)。
『歎異抄』第四条では、聖道の慈悲は「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」(『真宗聖典』六二八頁)と語られます。続けて、「浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり」とし、「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々」と結ばれます(同前)。
『歎異抄』では、聖道の慈悲による他者へのあわれみはすえとおらないと言われます。人は、凄惨な事件や事故、大災害などを見聞した時、その他者の悲惨さに呼応するように、自身の心を痛め、いても立ってもいられないもどかしい気持ちに駆られることがあります。そこに、他者の痛みを自分の痛みとする「共に苦しまずにはおれない心」が、自ら起こすような心ではなく、自ずから起こるのだと思います。その心が、『歎異抄』が語る浄土の慈悲であり、念仏なのではないでしょうか。そして、その念仏とは「私が念仏した」とか「私の念仏だ」などというものでは決してあり得ません。弥陀の大悲──great compassion──そのものです。
「お大事に」というあわれみの言葉は、共に苦しむ心からの喚びかけとなって、私の痛みを静めるにちがいありません。
(『真宗』2020年4月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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