「教化伝道研修」第三期第五回研修は、二〇一九年十二月三日から六日までの三泊四日の日程で開催された。「真宗におけるいのちの学び」というテーマのもと、御手洗隆明教学研究所研究員による発題、金子昭氏(天理大学附属おやさと研究所教授)による講義が行われた。また「聖教の学び」として、『教行信証』「行巻」の宗祖の名号釈について考究が行われた。
 

   白木澤しらきざわ 真一しんいち

 (仙台教区仙台組 玉蓮寺)
 

 今回の研修では、「いのち」という言葉を法話の場で避ける方が比較的多いと聞き、驚きました。「いのち」という言葉を軽々しく使っているとか、内容を誤魔化すために使っているという意見には納得できます。だからと言って、「いのち」という言葉を発することに躊躇してはいけないと思いました。同時に、改めて私自身が「いのち」という言葉と向き合う研修となりました。

 御手洗隆明研究員の発題は、「間に合わない時代のなかで〈いのち〉を考える」というテーマでしたが、間に合わない問題に直面したとき固まってしまう私がいます。「いのち」を説明しようとすると泥沼にはまり、僧侶として何もできないと絶望してしまいます。「いのち」は優しさで溢れているときもある反面、私を絶望の淵まで追い込む厳しい言葉でもあります。

 私のお寺では毎年三月十一日に東日本大震災追悼法要を勤めています。そこで法話をさせていただいていますが、いつも不安で仕方ありません。なぜ不安に駆られるかというと、間に合わない「いのち」の問題に対して取り繕おうとしているからです。そして、私がもっとも不安に駆られる要因として、「分断」に対する恐れがあります。震災では、御門徒も数名亡くなられており、そのご遺族が毎年法要に参列されてます。しかし、私は東北・被災地出身ではありません。震災も経験していない僧侶の話をどんな気持ちで聞いておられるかと不安になります。被災地では「分断」ということが折々で問題になることがあります。同じ被災者であっても、津波被害にあったのか、原発被害にあったのか、そもそも地震当日、被災地にいたか等によって、それぞれが立場を別にして争い、いがみ合いにまで発展しているケースもあると聞きます。立場の違いが作る見えない基準によって「分断」が生まれ、苦しくても苦しいと声に出せない状況があるのではないかと感じます。

 そのような「分断」の中で、「いのち」について話さなければならない焦りが私にはあります。金子昭氏や御手洗研究員が講義の中でされた、「いのちを器で表現し、器に無理やり何かを盛り付けようとしている」という指摘は、まさに焦っている私の姿だと教えられました。焦りの結果、乱暴に「いのち」を扱うことになり、乱暴に扱われた「いのち」は逆に私を問い、その問いによって私は苦しんでいます。

 果たして、「いのち」や「分断」の問題から何が問われているのか。まず、人に基準を設けないことだと思います。金子昭氏は講義の中で、出生前診断等の現代社会が抱える問題を挙げてくださいました。人間の問題として、「~でなければならない」「~であるべきだ」という何となくの基準を作ってしまい、結果的に生命の危機を迎え、「分断」の問題を生んでいるのではないかと感じます。

 そして御手洗研究員は、さらに視点を与えてくれました。震災後の原町別院との関わりの中で、「何もできないが……その視点でいのちということを考えていく。そのままでいい」という視点です。「そのままでいい」という言葉に私は心が軽くなりました。さらには「ともに聞法する、聞法できる場を作るということが大切である」ということを教えていただきました。私たちが自分勝手に作った基準では量れない「いのち」、分断することができない「いのち」に出会うところが聞法の場ではないかと改めて感じました。今年も東日本大震災追悼法要がお寺で勤まります。聞法と御門徒の苦しみを通して、「いのち」という言葉を避けることなく、丁寧に向き合っていこうと思います。

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   小塚こづか じゅん

 (名古屋教区第二十一組 西生寺)
 

 私が〈いのち〉ということを考える時に、思い浮かぶひとつの言葉がある。それは「生産性で人間の価値(いのちの価値)をはかる」という言葉である。いのちという言葉の受け止めは多様な考え方があると講義の中であったが、先の言葉は、現代社会における人間(いのち)に対する見方の一面を表していると思う。

 「生産性」という語の使われ方やその指し示すものは、人それぞれの思いに依っており、その言葉自体が現実を表現するものであるのかという大きな問題がある。また事実に向き合う時にその言葉のみに囚われるべきではないとも思われる。しかし、この語は相模原障害者施設殺傷事件・LGBTに関わる発言・優生思想に関わる場面などで端的に見られる表現である。

 生産性で人間をはかる社会とは、どのような世の中であるのか。それは、経済活動が優先される中で、モノやコトを生産する労働力やお金を稼ぐ能力で、人間の価値に「優劣」が決められる社会と言えると思う。多くのものや新しいものを生み出せる人や多くのお金を稼ぐことができる人が価値のある人とされ、そうではない人は価値の低い人や価値のないものとみなされる。人間の価値が役に立つか立たないか、自分あるいは社会にとって、都合がいいかどうかというものさしではかられる。そのような社会の価値観を「生産性」という語は表している。その価値観の中で、私たちは生きづらさを感じ、それぞれが老病死に対する不安や満たされなさを抱えているのではないだろうか。

 このような価値観は、私自身も長く当たり前に持ってきたものでもある。学生時代には成績や学校の名前で順番がつき、その数字で自身がはかられる。そして、特に会社に入ってからは、お金を生み稼ぐ能力、あるいは肩書ではかられる。そのようなことに対して、自身も疑問に思うこともなく、また人に対しても、その人が自分にとって役に立つかどうかという見方ではかり、自分にとって役に立つ都合の良い人とは親しく関わり、そうでない人を排除していくようなあり方をこれまでしてきた。

 先に「生産性で人間の価値(いのちの価値)をはかる」というその言葉が現実を表現するものであるかが大きな問題であると言ったが、そもそも生産性で価値を判断する以前に、人間をはかる「生産性とは何か」「人間の価値を生産性ではかることができるのか」ということが問われなければならないのではないかと思う。

 課題別講義の中で金子昭氏がトロッコ問を提示して問題を抽象的に考えることへの批判と言われていたが、先の言葉が表す人間(いのち)の見方とは、まさにいのちを抽象化して見たものであると思う。自らの思いや社会の価値観の中で他者の一面だけを取り出して、その目の前にある現実の他者、そして、そのいのちの背景を見ないあり方である。そのような見方の中では、他者は自分との比較対象という狭い世界でしか捉えられず、また、私自身がこれまで生きてきた中で抱えていた他者との関係における空しさの元もここにあったように思う。

 他者、そして、自らのいのちに出あうということは、自分の思いを超えたはかることのできない〈いのち〉に出あうことであると思う。御手洗隆明研究員が言われていた「響感」ということも、相手のことを自分の思いの中で理解したり、把握したりすることではなく、他者の痛み、あるいは喜びに対して、自らの思いを超えて自らの身が響くということではないだろうか。私自身、出あう人と共に生まれてきてよかったと思える場や歩みを求めていきたい。

人の「死」も、生産性という観点からは、価値のないものであるかもしれない。しかし、そのことを通して私自身の身に響いてきたことを大切にしていきたいと思う。
 

※暴走トロッコから人を助けるために他の人を犠牲にすることは許されるかを問う論理的思考実験。