懺悔のお通夜

著者:二階堂行邦


ずいぶん前にご本人からもお聞きしたのですが、Iさんという念仏者がいらっしゃいます。年老いた病気のお母さまをお子さんたちで面倒をみることになったのです。お母さまはご長男の家でご家族の介護を受けておられたのです。その間、Iさんを含むごきょうだい四人の方が交代でお母さまの夜間のお世話をされたのです。こうした在宅看護が三年続き、その間幾度か、急に具合が悪くなったと電話がかかって飛んでいくと、回復するということもあったそうです。しかし、こうした介護のかいもなくご命終されました。そしてお母さまのお通夜となりました。そこへお手次ぎ寺の住職さんから電報が届いたのです。それはこういう電報でした。

「お母さんは老いた身をあげて、精一杯、私たちの中にある地獄をえぐり出して見せてくださった仏さんであると思われませんか…」と。

私はこの話をお聞きして、その電報を送った住職も素晴らしいと思うのですが、それを読みとったIさんもさすが念仏者だと思いました。ご自分の母親を介護し尽くした、自分もやることはやった、親孝行ができたと思っていたら、「地獄をえぐり出してくれた仏さんだと思われないか」という電報を見てはっとした。そこではじめて、その席は、本当に頭が下がった懺悔(さんげ)のお通夜になったとお聞きしました。この感銘深い話が私は今でも忘れられないのです。

南無阿弥陀仏を聞いてきた人は、そういう言葉から自分に気がつくわけです。自分ではわからなかったことを、ただ電文のひと言で頭が下がった。はじめてわかった。そういうことが人間の葬儀の世界には起こるのです。日ごろから念仏を聞いている人がいないと、なかなかそういうことが起きてこないのです。

ひとつの死ということを契機にして、人間の生き方が照らし出されてくる。死は生の事実のままを照らし出します。照らし出された自分にとって亡き人は単なる死者ではなくなる。はじめて南無阿弥陀仏を教えてくださった諸仏となるのです。


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2014年版⑧)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2014年版)をそのまま記載しています。

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