仏智に照らされて 初めて 愚鈍の身と知らされる
信國 淳
法語の出典:『いのちは誰のものか』
本文著者:井上 円(高田教区淨泉寺住職)
信國先生のこの言葉は、法然上人の『一枚起請文』の御領解を受けとめられた言葉です。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法を能(よ)く能く学(がく)すとも、一文不知(いちもんふち)の愚(ぐ)どんの身になして、尼入道(あまにゅうどう)の無ちのともがらに同(おなじく)して、ちしゃのふるまいをせずして、只(ただ)一こうに念仏すべし (真宗聖典九六二頁)
法然上人は、念仏を信ずる人は、「智者」のふるまいをせずに「一文不知の愚鈍の身」の者として一向に念仏すべきであると語ります。一見すると、そこでは「智者」と「愚者」が対比され、念仏する人は「愚者」になるように勧めているように見えます。
そのことについて先生は、相対されるような「智者」や「愚者」は、共に自分の知識的立場に立っていることで言えば、「何ら質的な相違はない」と著書の中で語られ、「ただ文化的な開きがあるだけ」で、「本質的には人間はだれも知識する身であることに変わりがない」と明かされています。法然上人の「一文不知の愚鈍の身になして」とは、「すべて人間が依(よ)って立つところの知識的立場そのものを問題にして」、知識的な立場から「仏智(ぶっち)」の立場への転換が、念仏に依ることで行われることを明かしたものであると語られます。
他人と比べなければならない「智者」も「愚者」も、「わしはわかっている、わしはちゃんと心得ている」という知識的な立場にあるからこそ、思い上がったり、落ち込んだり、苛立ったりしながら、自損損他(じそんそんた)の苦しみを繰り返しているのでありましょう。その「知識的な立場」を生きざるを得ない我が身を、念仏を通して、大悲摂化(だいひせっけ)の仏智の願いに照らされることで、他ならぬわたしこそ「馬鹿な奴だ、あわれな奴だ」と知らされるのが「一文不知の愚鈍の身」ということなのです。先生は、そう知らされることの中にある「否定と憐愍(れんびん)は仏智から来る」とも教えてくださっています。
親鸞聖人の『教行信証』「信巻」の中に、人間の知識的な立場では、常に「貴賤(きせん)・緇素(しそ)」「男女・老少」「造罪の多少」「修行の久近(くごん)」をあげつらっているのに対して、
おおよそ大信海(だいしんかい)を案ずれば、貴賤・緇素を簡(えら)ばず、男女・老少を謂(い)わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず (真宗聖典二三六頁)
と示され、さらに、
行にあらず・善にあらず、頓(とん)にあらず・漸(ぜん)にあらず、定(じょう)にあらず・散(さん)にあらず、正観(しょうかん)にあらず・邪観(じゃかん)にあらず、有念(うねん)にあらず・無念にあらず、尋常(じんじょう)にあらず・臨終にあらず、多念にあらず・一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽(しんぎょう)なり。
と計十四の「非(あらず)」を連ねた上で、
如来誓願の薬は、よく智愚(ちぐ)の毒を滅するなり
と、わたしたちに明かしてくださってあります。それは「智者の毒」も「愚者の毒」もというよりも、「智者」「愚者」ともに立っている知識的な立場そのものが「毒」であるのだと明かしているのではないでしょうか。
東本願寺出版発行『今日のことば』(2013年版【6月】)より
『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2013年版)発行時のまま掲載しています。
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