生老病死の問いを様々な現場で考え、表現している方を講師に迎え、「老病死」を抱える身として生まれた私たちの存在とはどういうものなのか、そのことを共に考える「しんらん交流館公開講演会」。
【しんらん交流館講演会】
●開催日時 2020年7月15日(水)18:00~19:30
●講 師 アーサー・ビナードさん【詩人・絵本作家】
●講 題 知らなかった、ぼくらの戦争
●聴 講 料 500円
●定 員 先着50名
★新型コロナウイルス感染症の対応★
京都府のガイドラインから大谷ホールの収容人数を算出
アーサー・ビナードさんは、1967年・アメリカ・ミシガン州生まれ。ニューヨーク州のコルゲート大学で英文学を学び、1990年の卒業と同時に来日、日本語での詩づくりを始められました。
「小学館日本語辞典編集部web日本語」では、アーサー・ビナードの日本語ハラゴナシというコラムを持ち、「母国語の英語をぶら下げて来日し、日本語もゴクゴクゴクンゴクンと飲み込んで、やがて両方の言語で作品を書く」というキャッチフレーズのとおり、「臭い物に蓋をする」という言葉を飲み込んで、日本の生活や文化を表現されています。
そのほか2015年4月~2016年3月まで文化放送・戦後70年特別企画 アーサー・ビナード「探しています」では、薄れゆく戦争の記憶を探してアメリカ生まれの詩人が訪ね歩く企画をされています。
その中では、
福島菊次郎さん
福島さんは「あの戦争は命の使い捨てだった」と怒りをこめて繰り返しました。福島さんは「命というものは使い捨てじゃない」「命の価値は無限にあるんだ」という大きな肯定があるからこそ、嘘やまやかしに斬り込んでいくのだと思います。
中島邦男さん
多くの日本人が最後の最後には「神風という暴風が吹くかもしれない」と信じていたのでしょう。その心理的な状況と日々全く情報が入ってこないということがどこか深いところでつながっていたかもしれません。
鳴海冨美子さん
家族は敗戦でロシア軍が入ってきたことでロシアの兵隊たちと隣り合って彼らとギリギリの生活をすることになりました。ではロシアの兵士たちが皆恐ろしい人たちだったかと言えば、鳴海さんの記憶の中では実に優しい人たちだったそうです。彼らもギリギリの貧しい生活で靴も無く暮らしていたそうで、父親が魚を獲ってくるとそれを母親が調理して届けたりして隣同士の助け合いもあり、こうやって択捉島の戦争直後の生活が成り立っていたという事も見えてきました。しかしある日、おそらくはソ連の組織としての命令でその関係が急に崩れ、ロシア兵が怖い存在に変わります。組織の動きによって交流ができなくなり敵対関係になったことが、今の北方四島の問題、日露の国家間のことを考える上でも大きなヒントになるような気がするのです。
といった声をひろっていらっしゃいます。
そのラジオ番組は、日本民間放送連盟賞・最優秀賞を受賞し『知らなかった、ぼくらの戦争』 (アーサー・ビナード編著) として出版されました。
ビナード氏は大学卒業後に来日し、原爆の爪痕を残す広島で暮らす中で、原爆の被害やそこに生きた人々のことを知り、それを題材に数々の絵本や詩を執筆している。戦後70年が過ぎた時に、戦争体験者の記憶が失われつつあることを危惧し、体験者の取材を始めた。取材を進めるうちに、体験を聞くことは「戦争の話を聞く」ということではなく、「生き方を教わる」「生き延びていくための知恵を頂く」ということだったと考えるようになった。講演会では、戦争体験者との出会いと、戦争への思いについてお話いただく。