宿業共感の大地
(武田 未来雄 教学研究所所員)

真宗の聞法は、常に自分が煩悩に満ちた存在であることや罪業の身を持つものであることを、教えを通して知らせて頂くことが肝要である。それが念仏を頂くための大切な姿勢であろう。ところが私は、煩悩の存在であることの問題はあくまで自分一人のことであるように思っていた。もちろん煩悩や罪の自覚は、一人ひとりが気づくことであって、その気づきを他人に無理強いするものではない。そうは言っても、念仏の救済が自己自身においてのみ頷くことであるならば、ばらばらな信となって、同一の信ということが見えなくなってしまうのではないか。
 

この問題に関して、大切なことに気づかされた言葉がある。それは、曽我量深師の言われた「宿業共感の大地」である。師は「およそ弥陀の本願は六字の名号を所行の体として、全衆生界の宿業共感の大地の上に建立された」(『曽我量深講義集』第二巻、彌生書房、二一二頁)と言う。私たちはこの「宿業共感の大地」という視点に留意すべきではないか。業には個人的なもの(不共業ふぐうごう)と同時に、例えば自己の属する国が犯した罪や居住する地域の問題性など、他の人々と共に作す共業があると言われる。つまり、煩悩や罪業の自覚とは、個人的なものの内にのみ止まるものではない。罪業は先祖や地域をはじめ、世界の中で生きるものたちと共に作られるものもあり、またその報いをもたらすものである。私たちは他者との繫がりの中で生きており、いわば同じ大地に立つものとして、問題・課題を共に持って生きている。このような共通の宿業の自覚が重要であることを、曽我師の「宿業共感の大地」という言葉から考えさせられる。南無阿弥陀仏による救済の道は、個々別々ではなく、宿業共感という大地を開くのである。
 

特にこの「共感」ということが課題なのではないだろうか。現代では情報化された社会の中で生き、他者の生身の体温を感じることが出来なくなっている。その中で他者の痛みに対する感覚が弱くなり、他者への批判や攻撃が烈しくなっている。そこには自己も同じ立場や状況に立たされたらどうなるのかという想像力が必要なのではないだろうか。親鸞聖人が「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『真宗聖典』六三四頁)と、縁がととのえば、どのような振る舞いでもしてしまうのが私たちであるということを教えて下さっていることを忘れてはならない。
 

今や世界の問題は自分と無関係ではないことが突きつけられている。遠い国の問題だと思っていたことが、瞬く間に全世界に広まり、私たちの生活を大きく変えてしまうのである。このようなことをどう自分の中で受けとめ、課題化していけばよいのか。私たちは、世界中のあらゆる苦悩する人びとを救おうとする阿弥陀の本願の心に呼び覚まされ、共なる同じ大地に立って、他者に共感していく道を歩みはじめなければならないのではないか。
 

(『真宗』2020年8月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

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