私が転回されるとき

著者:澤田 見(大阪教区 清澤寺住職)


あなたはたったひとり、カヌー(ボート)を漕いでいます。

波は穏やかで、太陽がさんさんと照りつけています。青い空には入道雲がもくもくと湧き上がり、彼方には縁なす島々が点在しています。目に入る中で動くものは、まさに自分だけ。

そんな状況で滑るようにカヌーを進めていると、次第にあなたは自分が海面を移動しているのか、わからなくなってきます。するとやがて、「自分は静止していて、まわりのものがうしろへ過ぎ去っていく」という認識に至るのだといいます。

同様に、昔、地球は宇宙の中心にあり、そのまわりを太陽や月、星々が回っていると人々は信じていました。いわゆる「天動説」です。

それが覆されたのはおよそ五百年前のこと。コペルニクスが『天球の回転について』という著作で、「地動説」を主張しました。私たちの住む地球のほうこそが、太陽のまわりを巡っているのだということです。

それを初めて聞いた人々はびっくり仰天したに違いありません。しかし彼の説のほうが正しかったのです。それどころか、化学が進むにつれ、太陽すら中心ではなく、無数の星が集まった銀河系の片隅に太陽があるということがわかってきました。しかも、その私たちの天の川銀河は、宇宙に二兆個ほどもあるという銀河のひとつにすぎません。

そう。私たちは宇宙の中心ではなかったのです。

そのことから、物事の見方ががらりと百八十度変わってしまうことを、今でも「コペルニクス的転回」と言います。それはまさに人類の認識を変える大発見でした。しかし、人々はみずから住む世界が動いていることを、なかなか信じることができなかったのです。まるでひとりぼっちでカヌーを漕いでいる人のように……

お釈迦さまの弟子である目蓮が、亡くなった自分の母親が「倒懸(頭を下に逆さづりになること)」の苦しみを受けている姿を見て、なんとかそれを助けようとしたことが、お盆の始まりだともいわれています。

私たちもつい、亡き人を案じます。「あの世」で苦しんでおられないだろうか。不足はないだろうか。はては恨みに思って化けて出てこないだろうかとまで、考えてしまいます。世間で「あの世」から先祖が帰ってくるといわれるお盆という行事も、そんな心から御膳をお供えするなどして、日本でも盛大に営まれるようになったのでしょう。

もちろん、亡き人を想う気持ちは大切です。しかし、私たちのご先祖さまは、家に帰ってきてご馳走を食べなければいけないほど、飢えて苦しんでおられるのでしょうか。

逆さづりになっているのは、誰なのでしょう?

自分の立っている大地のほうが動いているのに、太陽や星が回っていると信じていた昔の人のように、亡き人が「倒懸」していると私たちは思いこんでいるだけなのではないでしょうか。しかし、コペルニクスがそのことをひっくり返したように、お念仏のはたらきは、私たちに自分こそが逆さづりになっていたのだと気づかせてくださるのです。そして亡き人のほうこそが、そんな私に尊い願いをかけ、案じてくださっている。そう「転回」されていくことが、真宗門徒としてお盆をお迎えする、いちばん大切なことではないかと私は思います。

さあ。カヌーに乗って大海原に漕ぎ出しましょう。恐れることはありません。その船は、阿弥陀仏の光に導かれ、無数のご先祖さまと常にともにあるのですから。


東本願寺出版発行『お盆』(2018年版)より

『お盆』は親鸞聖人の教えから、私たちにとってお盆をお迎えする意味をあらためて考えていく小冊子です。本文中の役職等は発行時のまま掲載しています。

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