生老病死をテーマに、仏教、浄土真宗、社会問題、平和、戦争、貧困、文化など企画展示を行っている〝しんらん交流館交流ギャラリー“
「西田幾多郎と鈴木大拙―真宗と禅に生きた人―」
本年は、西田幾多郎と鈴木大拙の生誕150年の節目です。2人の思想や業績は、現代でも色あせることなく継承され、その思索の原点には真宗の教えが大きく影響しています。
加賀の地で生まれ、育ち、大谷大学の教壇に立ち、親鸞聖人650回御遠忌に著された『宗祖観』に寄稿されています。
このたびの展示では、第1期「若狭の禅 西田幾多郎・鈴木大拙に至る道」、第2期「西田幾多郎・鈴木大拙と真宗」とし、若州一滴文庫を運営するNPO法人一滴の里、鈴木大拙館の協力のもと開催します。
西田幾多郎と鈴木大拙が真宗や禅に出会うまでの道、「禅」の印象のある2人が真宗の教えに影響を受けて生きたか、その業績とともに展示いたします。
是非、じっくりとご覧ください。
【鈴木大拙】
写真提供:鈴木大拙館
開催にあたって
本年は、日本を代表する哲学者・西田幾多郎(にしだきたろう)と仏教者・鈴木大拙(すずきだいせつ)の生誕150年を迎えます。両者の思想は、日本国内にとどまらず、世界のさまざまな学問分野や生活の現場に影響を与え、現代にまで色あせることなく伝えられています。
この二人は、金沢の第四高等中学校(現・金沢大学)で出会い、生涯の親友となりました。両者の思想は禅との関わりに注目されることが多いですが、真宗との関わりも深く、生涯にわたって強い関心を寄せ続けています。その理由は、二人の生まれ育った北陸(石川県)の地に根づく、真宗の土徳によるものが大きかったと考えられます。
西田幾多郎は、1870(明治3)年5月19日に石川県河北郡宇ノ気村(現・かほく市)で生まれ、1945(昭和20)年6月7日、鎌倉の地で75年の生涯を閉じました。生家は、真宗大谷派長楽寺に隣接する門徒で、とくに母の信仰は篤く、幼少時より蓮如上人の『御文』の言葉を子どもに教えていたとも言われています。
幾多郎の青年時代は、熱心に参禅をするかたわら、近代真宗教学の祖・清沢満之を敬慕するとともに、その門下の暁烏敏や佐々木月樵などとも親交を深めています。1911(明治44)年に真宗大谷大学(現・大谷大学)が東京から京都へ移転した際には、倫理学担当の講師に着任し、同年に宗祖親鸞聖人650回御遠忌記念として刊行された文集『宗祖観』に「愚禿親鸞」と題した随想を寄稿しています。そして最晩年には、親鸞聖人の言葉に深い共感を示しつつ、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」を著しました。
鈴木大拙は、1870(明治3)年10月18日に石川県金沢市本多町に生まれ、1966(昭和41)年7月12日、96歳でその生涯を閉じました。本名は貞太郎と言い、生家は臨済宗の檀家でしたが、母は真宗への関心も強い篤信者であったと言われています。
大拙は、若いころより参禅に励むとともに、多くの禅仏教の書を日本語と英語とで刊行し、世界に「禅(ZEN)」を紹介しました。その一方で、真宗に関する著作も多数発表しており、親鸞聖人650回御遠忌の際には、西田と同じく『宗祖観』に「自力と他力」を寄稿するとともに、『本願寺聖人伝絵』(御伝鈔)の英訳を佐々木月樵との連名で刊行しています。また1921(大正10)年からは真宗大谷大学(大谷大学)の教授となって約40年務めるとともに、『浄土系思想論』『日本的霊性』『妙好人』など多数の書を出版しています。そして親鸞聖人700回御遠忌(1961(昭和36)年)の際には、真宗大谷派からの依頼を受け、『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の英訳を手がけました。
このたびの展示では、第一期は若州一滴文庫(運営:NPO法人一滴の里)の協力のもと「若狭の禅 西田幾多郎・鈴木大拙に至る道」と題し、幾多郎と大拙が禅を追求するまでの道をたずね、第二期は「西田幾多郎・鈴木大拙と真宗」と題し、幾多郎・大拙と真宗との関わりや両者の思想の根底に流れていた真宗の精神を探究します。
150年前に北陸の地に生まれ、禅と真宗の道を歩んだ両者の生涯と思想を味わっていただければと存じます。
しんらん交流館
共催 若州一滴文庫(NPO法人一滴の里)
協力 石川県西田幾多郎記念哲学館/大谷大学/鈴木大拙館(五十音順 敬称略)
監修 第1期若州一滴文庫/第2期 教学研究所所員 名和達宣
以 上
【鈴木大拙プロフィール】
明治3年10月18日、石川県金沢市本多町に生まれる。本名、鈴木貞太郎。石川県専門学校(後、第四高等中学校)時代 に、西田幾多郎と出会い、生涯の友となる。中途退学し、一時英語教師となるが、上京して、東京専門学校(後、早稲田大学)、東京帝国大学に学ぶ。この頃か ら本格的に坐禅に取り組み始める。見性して、師釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。明治30年に渡米し、足掛け12年間を過ごす。帰国後、学習院教授、 大谷大学教授などを歴任。日本と欧米を行き来しつつ、仏教の研究と普及に精力を注いだ。昭和41年7月12日、96歳で逝去。
業績と思想
「西洋の方と比べてみるというと、どうしても、西洋にいいところは、いくらでもあると……いくらでもあって、日本はそい つを取り入れにゃならんが、日本は日本として、或は東洋は東洋として、西洋に知らせなけりゃならんものがいくらでもあると、殊にそれは哲学・宗教の方面だ と、それをやらないかんというのが、今までのわしを動かした動機ですね。」(「也風流庵自伝」)ここでは大拙の問題意識が端的に語られている。実際、大拙 は西洋の思想と言葉を深く学び、その上で自らの禅体験や仏教研究を基に、仏教(特に禅)を西洋へ伝えようとした。勉学と長年のアメリカ生活で身につけた英 語で、仏典の英訳、(欧米での)仏教の講演などを行い、さらには史上初の英文による仏教研究雑誌“ EASTERN BUDDHIST ”を創刊、自らも多くの論文を発表した。これらの活動を通して、多くの人々の仏教への関心を喚起すると共に、西洋と東洋との対話の場を開く基礎を築いた。
大拙の思想は、心と体といったような一見相容れない二つのものが実は同一のものの両面であるという一元論的な立場に立っ ている。『金剛経』の研究から得た「即非の論理」は新たな同一性の論理を、日本宗教史の考察において提出された「日本的霊性」は二元を総合的に把握する立 場を表したものである。その思索は、禅体験や仏教研究、そして親友西田幾多郎との相互の影響を通じて培われたものであった。
【西田幾多郎プロフィール】
明治3年5月19日石川県河北郡宇ノ気に生れる。金沢第四高等学校中退、東京帝国大学選科卒業。四高教授等を経て京都帝国 大学教授。明治44年刊の『善の研究』以下、多数の著作を発表。周囲に有能な同僚、門下生を集め、所謂「京都学派」の基礎を築いた。昭和3年退官後も、厳 しい時代の中で思索を続けたが、終戦の直前、昭和20年6月7日逝去。
業績と思想
西田は、東洋的思想の地盤の上で西洋哲学を摂取し、「西田哲学」と呼ばれる独自の哲学を築き上げた。その哲学は、近代日本における最初の独創的な哲学と評される。
西田の思想の背景には、確かに、東洋的宗教、とりわけ、西田自身が若い頃から行じていた禅仏教の宗教的体験があった。西田 が、従来の西洋哲学がもっていた〈主観と客観との対立〉〈現象界と実在界との区別〉といった前提を批判し、「何処までも直接な、最も根本的な立場」に立と うとするのは、その背景からである。
しかし、西田哲学は決して、宗教的体験を単に直接的に記述したものではない。西田が企図したのは、西洋の諸哲学と同じ次元 で語られる一つの「哲学」であった。西田が目指すのは、現実の世界の構造を何処までも「論理的」に解明することである。「純粋経験」「無の場所」「行為的 直観」「絶対矛盾的自己同一」といった独特の用語も、従来の論理によっては捉えることのできない「根本的」な事実を、真に具体的に捉えることのできる「論 理」として構想されたものに外ならない。
西田のこのような哲学は、宗教・自己・身体・生命・歴史・芸術・科学等、様々な観点から注目を集めている。