念仏者とは 一切衆生を 「御同朋」として 見出していく存在

宮城 顗
法語の出典:『本願に生きる』

本文著者:尾畑文正(同朋大学名誉教授)


世の中が混沌としている。自分も混沌としている。いつでもそんな感慨に陥る。十代の自分においても、三十代の自分においても、そして思いも及ばなかった歳月を経た六十代の自分においても、世の中が混沌としている。自分が混沌としている。なぜ世の中を混沌とさせ、なぜ自分が何者かわからないのか。そういう状況を解き開く鍵はないのだろうか。実に、抽象的観念的な問い。それでも私においては、こういう問いに悩まされ続けて六十年の月日が過ぎていった。否、むしろ、この問いが自分の人生の全体であったかもしれない。

この茫漠とした問いが解き開かれないと、先ずは自分が自分の人生に納得できない。人は言うかもしれない。そんな問いはこの格差社会で精いっぱい生きている生活者の現実から遠く、贅沢な問いだと。しかし生まれて老いて死んでいく中で、なぜ世の中は混沌としているのか。なぜ自分が何者なのかと問うことは何の意味もないことなのだろうか。

物心ついてから私を突き動かしていたこの問いが、私にとっては根本的な問いだということを、あらためて私に向き合わせた出来事が二つある。一つは二〇〇一年九月十一日にアメリカで起きた「同時多発テロ」といわれる国際貿易センタービルの崩壊であり、その後の富める国アメリカを中心にした報復的な暴力の連鎖であった。その出来事は人間を尊敬(リスペクト)することのない「地獄・餓鬼・畜生」的世界のむき出しであった。

さらには、二〇一一年三月十一日に日本で起こった原子力発電所の過酷な事故をともなった東日本大震災であった。地震と津波で命を奪われた人々への悲しみを通して、日常生活における人間の関係存在性の重さに、向き合うことの意味をあらためて考えさせられた。そして、天災ではなく、人災として立ちはだかる原発事故への怒り、その現実から、原発を推進してきた国と電力会社、さらにはそういう世界をいままで「よし」として支えてきた私たち一人一人の存在の曖昧さと欺瞞(ぎまん)、それが六十年間の人生全体を貫く「私とは何者なのか」という問いと重なっていま問われている。

なぜ世の中が混乱しているのか。なぜ自分が何者かがわからないのか。それは、私が私自身の存在の根っこに張りついて生きてこなかった結果ではなかったか。我が身ひとりを自己として、我が身ひとつを世界として生きてきたことのつけが、暴力的な報復的世界を作り上げ、生物を根絶やしにする核物質を半永久的に存在せしめる原発を是認してきたのである。そこには、全ての存在は互いに尊敬し、慈しみ、分かち合って生きてある「御同朋」的存在だということに思いを馳せることもなく、むしろ他の存在を踏みつけてきた私の存在がある。そういう私の存在の集合体が経済至上主義的社会そのものである。

そのような「我と我が世界」の現実を徹底的に知らしめるはたらきが仏の呼びかけとしての念仏である。その念仏に目覚め、念仏に生きることこそが「念仏者とは一切衆生を「御同朋」として見出していく存在」ということなのだろう。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2013年版【12月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2013年版)発行時のまま掲載しています。

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