報恩講と私
著者:正親久美子(山陽教区西寳寺坊守)
真宗寺院の坊守である私にとって、報恩講は、最も大切な御仏事であり、一年の始まりであると同時に、一年の総決算でもあります。
毎年報恩講を迎える季節になると、母が亡くなった年の報恩講を思い出します。結婚以来ずっと母のそばで一緒にたずさわってきたのですが、いざ母が入院し、自分が中心になって裏方をするとなると、何もわかっていなかったことを思い知らされ、病院へ行ってはいろいろ尋ね、何とかお勤めできた二十五年前の報恩講が昨日のことのようによみがえります。
母は、「そんなに心配せんでもええよ。みんなそれぞれにやってくださるから。有り難いという気持ちさえ忘れへんかったら、大丈夫や」と、私を安心させるよう温かく励ましてくれました。実際そのとおりで、御同行がそれぞれの仕事を自分の仕事として関わってくださっていることにも、その時あらためて気づきました。
仏具のおみがきとお華束つきに始まり、お花立て、本堂や境内の清掃、庫裡(くり)の片付けなど、報恩講を迎える喜びの中にも一週間があわただしく過ぎていきます。お華束も大きなお仏飯も、お勤めの途中でこわれないかとどきどきしましたが、改良を重ねながら、上手に盛って荘厳してくださいます。お斎の用意も大切なことの一つです。わざわざお寺の報恩講に間に合うように野菜を作ってくださっていることを知ったのもこの年です。
お勤めが始まると、母や祖母が姿勢を正してお座に座っていたのを思い出し、私もできる限り座るよう心がけています。「恩徳讃が、会やお座の終わりの歌になっていませんか」と問いかけられ、恩徳讃を歌う毎にそのことを意識するようになったのもその年からです。
先達から、真宗門徒の生活は毎日が報恩講だと教えられていますが、恥ずかしいような日暮らしです。仏恩報謝のお念仏といただきながら、身を粉(こ)にしても報ずることもできず、骨をくだきても謝しえざる身であります。親鸞聖人は、そういう身であればこそ、「称名念仏はげむべし」と勧めてくださっています。愚痴の中にしか称えられないお念仏ですが、それでも仏様の大悲のお心を聞かせていただけます。その呼びかけに応えて、自らの限りある命の事実を見据え、どうにもならないこの身にお念仏申し、この今の自分の境遇を精一杯尽くすべく、ともに、今年も報恩講をお勤めしたいと思うことです。
信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし (「正像末和讃」真宗聖典五〇六頁)
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし (「正像末和讃」真宗聖典五〇五頁)
東本願寺出版発行『報恩講』(2017年版)より
『報恩講』は親鸞聖人のご命日に勤まる法要「報恩講」をお迎えするにあたって、親鸞聖人の教えの意義をたしかめることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『報恩講』(2017年版)をそのまま記載しています。
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