「真実の親」に遇う
著者:高柳正裕(学仏道場「回光舎」舎主/同朋大学非常勤講師)
後ろの自動車からクラクションを鳴らされて、怒りに駆られて人を殺してしまったという事件が起きたと聞いても、「またか」と思って、私たちはこの頃、驚かなくなっているのではないでしょうか。何故なら、自分も何かのきっかけで爆発するかもと、感じているからなのかもしれません。今の私たちは、一寸でも相手に非があると、徹底的に責め立て、怒鳴りつけ、土下座をさせたくなる衝動に駆られてしまいます。どうして、これほどまでに私たちの心は苛立ち、すぐに臨界点に達してしまうようになったのでしょうか。
ニーチェが「神は死んだ、俺たちが神を殺したのだ」と叫んでから既に百年が過ぎ、「安楽浄土」とか「如来の大悲」という言葉が心に響かない「近代文明社会」を生きている私たち。振り返ってみると、小さい頃から、どこに居ても採点・評価され、点数が低いと、「何をやっているんだ」と責め立てられ続けてきました。しかも、責め立てたのは、他人だけではなく、一番身近な親や祖父母であったりもしました。それ故に、学校や職場だけでなく、自分の家でさえも安らげる場所ではなくなってしまって、いつも見捨てられるんじゃないかという怯えと怨みが、心の底にずっとあるのではないでしょうか。
こうして私たちは、いつも周りからの評価の眼に晒され、怯えているので、ハリネズミのように誰に対しても警戒心をいだき、自分を防御せずにはおれません。ハリネズミのような私たちの心は、世界の中に独りぼっちだという深い孤独感で覆われていて、たまに自分のことをわかってくれる人が現れても、「きっと、この人も私から離れていくだろう」という深い疑いが消え去ることがないのです。
ところが驚くべきことに、そうした私たちの、怯え怨む心を、如来は自分のこととして深く悲しみ、全存在を賭けて、大いなる安らぎを衆生に実現せずにはおかない(「一切の恐懼に、ために大安を作さん。」(『仏説無量寿経』「嘆仏偈」真宗聖典一二頁)と、深く決意しておられるのです。
実の親でさえも、子どもを裁き、捨てることがあります。しかし、如来は裁きません。無条件に「そのまま」と呼びかけ、受け入れてくださる。そうなのです。悲しいことですが「実の親」は「真実(まこと)の親」ではなく、如来こそが決して捨てることがない「真実(まこと)の親」なのです。しかし「そのまま」との声は単なる受容ではなく、自分を握り、守る、その自分を投げ出せ、という「絶対否定」の声です。その声が真に身に響き、聞こえる時、殻を作り防御している、その自分全体が投げ出され、無条件の世界が開かれるのです。
しかも、その如来は、どこか遠くにいる神がかった神秘的な存在ではありません。私に「そのまま」と呼びかけてくださるのは、私に先立って如来の心にふれた師であり、師の中に如来は生きてはたらいているのです。その師は、「私はあなたの師だ」とは決して言わず、逆に、「あなたは私の深い親友です」と言われ、世の中の人すべてが、そして実の親さえもが私を見捨てたとしても、私を無条件に信じ、いつも隣に居て、あるいは先に歩んで、呼びかけてくださっている。そのことに気づかされ、自分が投げ出される時、凍り付いた心は溶け、孤独から解放されるのです。すなわち、「真実(まこと)の親」である如来に遇える時、同時に、「真実(まこと)の友」「師」をいただくことができるのです。その時ハリネズミの針は消え、深い警戒心と怨みは溶け、冷たい風こそが自分を立ち上がらせてくれる暖かい風と感じられるようになる。そして、不思議にも、どんな人をも敬い信じ、一切衆生の苦しみを自分のことと感じ背負う「報恩の今」を、いつも新しく生きることができるのです。
東本願寺出版発行『報恩講』(2017年版)より
『報恩講』は親鸞聖人のご命日に勤まる法要「報恩講」をお迎えするにあたって、親鸞聖人の教えの意義をたしかめることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『報恩講』(2017年版)をそのまま記載しています。
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