仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり
法語の出典:「浄土和讃」(『真宗聖典』481頁)
本文著者:中島善亮(奥羽教区願成寺住職)
「親の意見(小言)と冷酒は後で効く」ということわざがある。確かに私も、父の小言はただただ煩わしいだけのものとしか受けとめていなかった。父は、私がどこかに出かけようとするといつも「どこに行くのか?」としつこく聞いてきた。私は当時そのことがたまらなく嫌で仕方がなかった。
時がたち、現在、私も父親の立場になった。長女が今年から中学生となり、自転車通学をするようになった。今まで自転車で公道を走ったことがない長女が、突然学校までの道のりを自転車で通学するようになったものだから、親としてはやはり心配である。帰宅時間になると、いつ帰ってくるだろうかとそわそわしながら窓から外を覗いたり、時にはわざわざ帰宅時間に合わせて犬の散歩に出かけたりすることもある。そういう親の気持ちになってみて、あらためて気づかされた。
当時、ただ煩わしいとしか感じられなかった、父の「どこに行くのか」という言葉には「どうか無事で帰ってきてくれよ」という深い願いが託されていたのだと。その願いに気づいてみれば、何ともありがたい父の言葉であったのだと今更ながら思うのである。
言葉に込められた願いを聞きとった時、その言葉は生きた教えとして私の上に響いてくる。そして、その言葉や願いを通じて教えを示してくださった存在を「諸仏(しょぶつ)」と親鸞聖人は仰がれたのである。仏という存在も、教えということも、はじめからどこかにあるものではない。偉い方の仰せだから教えになるというわけではない。言葉に願いを聞きとった時、はじめてその言葉が自分をつき動かす教えとなり、そしてその教えを示してくださった存在が、私を目覚め立たせる仏なる存在となるのだ。
この和讃(わさん)の中で
仏の御名(みな)をきくひとは
とあるが、「きく」とは、願いを聞きとるという意味であろう。
生前中は、居てくれるのが当たり前という思いがあったからであろうか。あらためて父の存在に思いを寄せるということはあまりなかった。
しかし父亡き今、ことあるごとに「親父ならこんな時どうしていたのだろう」と、父について思いを馳せている。思えば、生前中は毎日顔をつきあわせていても、本当の意味で父と出会えてはいなかったのだろう。むしろ父を失った今、より確かな存在として父と出会えているのかもしれない。そして今、父が私に託してくれていた願いを、この身に感じながら生きている。
人は、時に逃げ出したくなる弱さを抱えながらも、そういう願いに背中を押され、歩みを進めることができるのだ。願いに目覚め立って、決してそっぽを向かず、逃げ出すことなく、願いに生きる者となる。これが「不退(ふたい)にかなう」ということであろう。
私にかけられていた「諸仏」の願い。その願いに押し出され、支えられ、ようやく私のような者でも、覚束ない歩みながら、退(しりぞ)くことなく歩ませていただいている。
東本願寺出版発行『今日のことば』(2017年版【4月】)より
『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2017年版)発行時のまま掲載しています。
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