大無量寿経 真実の教 浄土真宗
(『教行信証』『真宗聖典』一五〇頁)

二〇二三年、真宗大谷派では「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要」をお迎えします。「立教開宗」は、「浄土真宗」という宗名(しゅうみょう)を掲げる『教行信証』が一二二四(元仁元)年に成立したという説が、近世近代にかけて次第に認知されていったことに由来します。そして一九二三(大正十二)年に「立教開宗七百年紀念法要」が営まれるに至りました(『教化研究』第一六五号「特集 立教開宗の精神」、二〇一九年)。

親鸞聖人は主著『教行信証』の総序に続けて、『大無量寿経』にこそ「真実の教」が顕されており、その教えに生きる道が「浄土真宗」であると表明されています。

 

「ただし親鸞聖人は、「論家・宗師、浄土真宗を開きたる」(『浄土文類聚鈔』聖典四二〇頁)、あるいは「本師源空あらわれて 浄土真宗をひらきつつ」(『高僧和讃』聖典四九八頁)と述べ、あくまでも法然上人(源空)をはじめとする七高僧が浄土真宗を開いたとされています。そして「選択本願は浄土真宗なり」(『末燈鈔』聖典六〇一頁)とも言われ、法然上人から相承された選択本願の教えを、「浄土真宗」と示されました。

宗名をめぐっては、近世に浄土宗との間で、長年にわたる論争が繰り広げられました。一七七四(安永三)年八月に、東西本願寺の江戸輪番が寺社奉行に「浄土真宗」公称を請願したところ、浄土宗の増上寺が反対したことに始まります(木場明志『『宗名往復録』註解』安居次講講録、真宗大谷派宗務所出版部、二〇〇八年)。

この宗名論争へ尽力した一人に、江戸浅草の光圓寺住職で、のちに学寮講師となった五乗院宝景師(ごじょういんほうけい)(一七四六~一八二八)がいます。一八二〇(文政三)年七月三~五日に学寮で行った講義では、一向宗など様々な俗称もあるところ、「浄土真宗」の本名に統一したいと、安政三年に幕府へ対して出願したのは、親鸞聖人が『教行信証』のはじめに宗名を定めて以来、「浄土真宗」が本名であるためだ、と主張しています(『御宗名諍論辨』、木場『『宗名往復録』註解』掲載)。

 

宗名論争は、一般寺院の僧侶にとっても由々しき事態でした。一七七七(安永六)年に近江国坂田郡(現・滋賀県)の下寄(しもより)十二ヶ寺(現・下寄十三日講)が、これまでにない大難であるため、どれだけ年月がかかっても志願を成就(「浄土真宗」という宗名を公称)して欲しいと、同行(門徒)と共に身命を顧みない覚悟で本山に願い出ています(「宗名之儀ニ付下寄十二ヶ寺書付」德明寺蔵)。「浄土真宗」と名のることは、多くの僧俗にとって悲願となっていきました。

 

ようやく「真宗」として宗名公称が許されたのは、明治新政府の時代となった一八七二(明治五)年三月十二日でした。親鸞聖人に宗派的意図はありませんでしたが、その門流にある人々は、親鸞聖人が宗の名を「浄土真宗」と定めたと受け止めてきました。そしてそれを公称できるよう、身を挺して取り組んだのです。それは自らが宗(むね)とする教えを確かめる営みであったと言えるのではないでしょうか。

来る立教開宗の法要を迎えるにあたり、脈々と「浄土真宗」の名のもとに開かれてきた聞法の場に、私自身も身を置き続けたいと思います。
(教学研究所助手・松金直美)

([教研だより(172)]『真宗2020年11月号』より)