「汝はこれ凡夫なり」
(亀谷 亨 教学研究所嘱託研究員)
先日、「感染者を排除する人を排除しない」という言葉に出会いました。新型コロナウィルス感染拡大の中、感染者を中傷し排除しようという動きがあることが問題にされています。それを批判し「差別は止めよう」というメッセージも同時に発信されています。それは人として誠実な態度であり、至極当然とも言えましょう。しかし「感染者を排除する人を排除しない」と言われると、少し戸惑いも覚えました。頭の中で「摂取不捨」とか、「選ばず・嫌わず・見捨てず」という言葉が浮かんでは消えました。
そんな中、友人の僧侶から聞いた話を思い出しました。多数の人が犠牲となった殺人事件の犯人逮捕のニュースをご門徒宅で観ていたとき、そこのおばあさんが、「若さん、この犯人の入った刑務所に真宗のお坊さんはいないの?」と尋ねられたそうです。それは教誨師をイメージしてのお尋ねだったようです。
「どうしてそう思うの?」と訊きかえすと、「だって犯人がかわいそうでしょう。この犯人は死刑になるかもしれない。だったらあんな大罪を犯したまま空しく死んでいくなんてかわいそうだ。この人に親鸞聖人の教えを聴かせてあげたい。だから真宗のお坊さんがその刑務所にいないのかなって思ったの」と言われたそうです。私自身、そういう視点はまったくなかったものですから、その言葉に圧倒されたことを覚えています。
その後、ある年配の男性との会話で、同じ事件に触れたとき、その男性は即座に「あんな奴は世が世なら、銃殺だ」と言い放ちました。この二人の違いが日常の中で明確になっていなかったことが、まさに私の戸惑いの正体です。
男性は「あんな奴」と言われましたが、おばあさんは、「あんな奴」のところに立たれたのでしょう。「あんな奴」のところに立つことができたから言い得た言葉です。それが見えないがゆえの私の戸惑いです。本当は「感染者を排除する」心でいっぱいなのは私でした。
仏は私に「凡夫」と呼びかけます。凡夫はあらゆるものの中で自分を最も愛しく思い、それ故に自他を分別・差別する汚れた心に「臨終の一念」まで執らわれる存在です。この凡夫であることの自覚こそが正しい自己認識なのです。しかしそれは私たちを突き放す言葉ではなく、その自覚を通して救わんという仏の慈悲の現れなのでしょう。ですからそこには願いがあります。
「摂取不捨」とは、大風呂敷を広げて、ただ何でもそのまま受け入れるということではなく、そこに願いがかけられているということです。凡夫でしかない自らのあり方を悲しみ・痛むことを通して「いのち、尊し」という目覚めをうながそうとする願いがそこにあるのでしよう。
おばあさんの言葉もまた、願いに満ちあふれたものです。親鸞聖人は「「凡夫」は、すなわち、われらなり」(『一念多念文意』聖典五四四頁)と言われます。「汝はこれ凡夫なり」(『仏説観無量寿経』聖典九五頁)という仏からの呼びかけを「すなわち、われらなり」と受け取ったときに湧き起こる感情こそ、本当の「優しさ」と言い得るものだと感じています。
(『ともしび』2021年2月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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