真宗大谷派(東本願寺)では、宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃事業の5つの重点教化施策の一つとして、「真宗の仏事の回復」を進めています。これは朝夕のお勤めや報恩講をはじめ、通夜・葬儀・法事などのあらゆる仏事が、御本尊を中心とした仏法聴聞の場として回復していくための取り組みです。ここでは各教区の動きを紹介します。
大阪教区ではこのたび、『真宗門徒のお葬式~真宗の仏事の回復を願って~』ブックレット版を発行いたしました。
葬儀についての受け止めや、日頃からよく聞かれる葬儀に関する質問への答えを掲載し、葬儀に関する儀式が何を願われている仏事なのか、葬儀の基本的流れとともにまとめられています。
※2015年にリーフレットとして発行されたものを、ブックレット版として再編集したものです。
古く日本の社会では、人の死を「冷とうなる」と体感をもって語り、お通夜の事を「夜伽」と呼んで悲しみを縁者と共有し、葬儀を「葬連」と言い、火葬場までの道を「葬連道」と呼んできました。そして、その葬送を故人とつながった人たちによる「お弔い」と総称してきました。
死にゆく人を親族が見取り、死に至っては縁ある人が集まり、夜を通して故人を偲び、故人の事や残された者との関わり合いを語り合いました。そして、お棺と共に葬列を組み火葬場へ向かい、その葬列を見守る人も静かに合掌しました。火葬場に着けば喪主は会葬者にささやかな供養の品を配りました。そして夜を徹して荼毘にふされ、翌朝に収骨が近親者で行われました。
そのお弔いの送葬の中で僧侶は、その場面場面で勤行と法話を行い、会葬者は釈尊の教えである 「諸行無常、生死無常」の教えを確かめ合ってきました。と同時に残された人たちは故人の人生の歴史と残された者との関わり合いに、改めて出遇い直してきました。そこに葬儀が仏事として執り行われてきた意味もあるのでしょう。
しかし残念なことに、そのような先人の光景も、時代の流れと共に随分と様変わりしてきました。
「通夜式」「告別式」というセレモニー化、そして故人と地域社会や縁者との関わり合いをさし置いた葬送が多くなってきています。果たして先人たちの願いや故人に対する情感がどれほど含まれているのでしょうか。
葬儀を近親者のみの癒やし、もしくは屍を「葬る」ためだけの儀式とするか、それとも「弔い(訪い・出遇い)」の意味を持って、故人を「身をもって無言で生死無常の理を説いて浄土に往生した諸仏」といただく仏事とするか、改めて私たちは「お弔い(葬儀)」の意味について問い直したいものです。
—–「はじめに」より
大阪教務所にて1冊50円(送料別)にて頒布いたしております。施本などにぜひご利用ください。
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(大阪教務所)