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-京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から2019年12月にかけて毎月、『すばる』という機関誌が発行されてきました。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!
真宗人物伝
〈31〉長門円空
(『すばる』752号、2019年1月号)
小林准士「旅僧と異端信仰―長門円空の異義摘発事件―」より転載
1、異義事件の発端
長門円空は、宝暦10年(1760)12月に本山西本願寺から、その説いた教えが邪義・邪説であると判定された人物です。「長門老僧」と呼ばれ、この事件の頃には、60代だったようです。
円空は、長門国豊浦郡阿川村(山口県下関市豊北町阿川)にある善照寺(浄土真宗本願寺派)の弟子であった教誓の新発意(子息)として生まれました。その後、40代の頃には萩松本町(山口県萩市)にある明光寺の弟子となりますが、寺院を持つことはありませんでした。円空には妙了という坊守(妻)がいましたが、宝暦10年(1760)2月13日、江戸築地で病死しています。
同10年10月頃、本山は石見国(島根県)の僧侶らに対して、円空の所在を捜索するよう命じます。同国辺りを徘徊して寺々で勧化している円空の法義が問題視されたためです。そうしたところ、円空が親鸞聖人の旧跡巡拝のため、常陸国銚子(千葉県銚子市)に逗留していると判明しました。そこで石見国の僧侶2名が派遣されることになり、同年11月18日に京都を出立しました。ところが同日、山科(京都市山科区)で笈を背負い、合妙・妙信という2人の尼を同伴していた円空と遭遇します。この尼は、旧跡巡拝のために、夫の了承を得たうえで剃髪し、円空と同道していた女性でした。そして円空らは、京都の西本願寺にほど近い宿へ滞在しながら取り調べられることになりました。
円空は本山参詣や旧跡巡拝などのために、広域を旅する僧侶でしたが、その探索を命じられた僧侶もまた同様の旅僧でした。当時は、寺院など1カ所に逗留しないで、各地を往来する旅僧・風来僧がおり、真宗教団や幕藩領主は、そのような把握しきれない存在を取り締まろうと苦慮していたのです。
2、異義とされた要素
異義事件の取り調べ記録によると、円空は僧侶による教化を「一往之義」として認めつつも、在家者だけによる「同行之会合」を「再往之実義」と述べ、後者に大きく重点を置いていました。さらに「同行善知識」という言葉があり、これは在家の人に限ると説いて、俗人の教化者を認めていたのです。そして同行だけの会合でなければ利益はないとまで言い、同行らは、毎月の定例法要日にも寺院や道場ヘ参詣せず、密かに会談していたと言われています。
善知識たる本願寺門跡を頂点とし、学林(学校)などで学んだ僧侶による教化を前提とする教団体制のもとでは、円空の活動と認識は取り締まらざるを得ない対象だったのでしょう。
本山は、円空の法義を邪義・邪説であると判定し、禁固に処しました。そして翌宝暦11年(1761)2月28日、萩の明光寺に引き取らせることに決定し、同年9月20日、身柄を送っています。
3、活動した真宗の土壌
円空が活動した石見国周辺地域には、門徒を主体とした地縁的な講組織が形成されていました。それは、寺檀関係と異なる論理で結集されており、在家に僧侶を招いて法談がなされていました。
長門円空の広めた教えを正すため、西本願寺が石見国へ使僧として派遣したのが、『妙好人伝』の初篇を編さんした仰誓(1721~94)でした。そして宝暦14年(1764)5月11日に、浄泉寺(島根県邑智郡邑南町市木)の住職となります。仰誓の編さんした『妙好人伝』初篇には、芸州(安芸国、広島県)や石州などの妙好人が紹介されています。このように在家を基盤に教化する旅僧・風来僧たる円空らの活動した地域には、篤信の真宗門徒である妙好人や「お同行」と呼ばれる人びとが多く生み出されたのでした。
■参考文献
小林准士「旅僧と異端信仰―長門円空の異義摘発事件―」(島根大学法文学部紀要社会文化学科編『社会文化論集』3号、2006年)