大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり

法語の出典:「浄土和讃」(『真宗聖典』487頁)

本文著者:山雄竜麿(大阪教区以速寺住職)


五月になると、義父である前住職の入院を思い出します。「ちょっと診てもらう」と出かけた結果が末期癌でした。家族はパニック、お寺はどうなるのか…。新米住職の私は途方に暮れました。そんな中、親友の父もまた癌であると知ります。すると、状況は変わらないのに、「私だけではない」と知って、少しだけ落ち着くことができました。

親鸞聖人は『教行信証』で、アジャセ王子とお釈迦様の出遇いを紹介されています。

アジャセは父ビンバシャラ王を殺害しますが、猛烈に悔いて病に倒れます。何より「この苦しみは父王殺害の報い。地獄へ落ちる序章に違いない」と怯えるのです。

お釈迦様は、そんなアジャセにさまざまなことを説かれます。その一つは「確かにそなたの罪は重い。しかし、すべての人は繋がりの中を生きている。私もその一人。そなた一人が地獄へ行って済まされる罪などない」という呼びかけです。

ここで、お釈迦様が説かれる繋がりという言葉には二つの意味があるといわれます。

一つは私に繋がる歴史、私が生まれる背景です。ある日突然無垢な私が生まれてきたのではありません。そこには遥かに繋がる私への生命のバトンがあります。少し乱暴に言えば宿業です。それは前世が云々という無責任なことではなく、何代にも渡る人生という営みの引き継ぎを意味します。その最先端に私がいるのです。縦の繋がりです。二つ目は出遇いによる繋がりです。歴史をもつそれぞれの人生が縁によって重なっていくのです。横の繋がりといえます。

この縦と横の繋がりで綿々と紡がれるのが私たちの人生ではないでしょうか。まさしく業縁存在です。そして、お互いに絡み合い、一人では背負いきれない社会という共に生きる時代を織っていくのです。  さて、教えを聞いたアジャセはすぐに頭を垂れます。そして「私一人が苦しいと思っていました。しかし、そうではなかった、お釈迦様も私と繋がっておられました。今私が進むべきは、多くの人と共にお釈迦様の教えを聞いていく道です。たとえ地獄に落ちたとしても」と思いを述べます。

それは、地獄の恐れから解放され、アジャセが自分の人生に目を向けた瞬間でもあります。そしてアジャセは、この思いを「無根の信」と名づけました。自分の姿を言い当てられ、今まで考えもしなかったお釈迦様を敬う心が芽生えたのです。

それは、真如(真理)より来たはたらきが大いなる信心として成就し、アジャセの上に仏性(仏となるもの)として開花した瞬間でもあります。

囚われていた思い込みが見事に破られ、きっとアジャセの目の前には、広々とした世界が広がったことでしょう。

さて、前住職が還浄して十年程になりました。多くの方に支えられなんとか住職として勤めていますが、やはり何かことが起こると「なぜ私だけ」と思います。繋がりの世界を生きながら、自分勝手に苦しみを作っているのでしょう。私こそ仏説を聞き続け、かたくなな思いを破られる必要があるようです。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2017年版【5月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2017年版)発行時のまま掲載しています。

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