生死海を尽くす
著者:四衢 亮(高山教区不遠寺住職)
親鸞聖人は「疑謗を縁として」と書かれた『教行信証』後序のお言葉の後に二つの文章を引用しています。そのひとつが、
『安楽集』に云わく、真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。 (真宗聖典四〇一頁)
という文章です。この『安楽集』は、中国の道綽という方が書かれた文章で、「まさに真実の言葉を集めて、往生浄土の歩みをなすということを開いていきたい。なぜならば前に浄土の歩みをなし浄土に生まれた者は後の人びとを導き、また後に生まれこの道を歩もうとする者は前に歩んだ人を訪ねなさい」と。「そういう導き訪ねるという歩みが(連続無窮)絶えることなく続いて、仏道が途絶えることがないことを願います」、そのことによって「無辺の生死海を尽く」すといわれるのです。
生死海とは迷いの海ということです。仏教では迷いを、輪廻とか流転とか生死といいます。流転も輪廻も生死も、人間が同じようなことをくり返し、グルグルと迷いの道を回っているということです。
たとえば、雪がすごく降っている山の中で迷った場合、何とか抜け出そうと思って歩いていくと、人の足跡があった。この足跡について行けばいいと思ってその足跡について行った。しばらくしたら足跡が二つになった。またそれについてしばらく行ったら足跡が三つになった。これは同じ所をグルグル回っているということです。雪の中で一寸先もわからないホワイトアウトという状態になると、方向がわからなくなって遭難するケースが多いのだそうです。ですから、「生死海」というのはまさに自分ではまっすぐ進んでいるつもりでいながら、同じ所をグルグル回り、その回っていることにも気がつかない。しかしその迷いの姿を教えられることにより、迷いの世界を目覚めの場所に変えていくということが「無辺の生死海を尽く」すということです。
「迷い」というのは、迷っていたことに気づき、目覚めるということがあるからこそ迷いというのです。迷いしかなければ、迷っているとも思いません。自分は間違ってないと思っているのですから。それに気づいた人から、「あなたは間違っていますよ」といわれて初めて、「あっ、間違っていたのか」と気づくわけです。
「無辺の生死海を尽くさん」というのは、迷いだから駄目だというのではありません。迷いが目を覚ます場所に変わるのでしょう。
無辺という果てしのない迷いの海です。ですからそれに目を覚ますことも終わりがないのです。「尽くさん」というのは、その終わりのない歩みを表しています。
『歎異抄の世界をたずねて』(東本願寺出版)より
東本願寺出版発行『真宗の生活』(2017年版⑪)より
『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2017年版)をそのまま記載しています。
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