「南無阿弥陀仏」は言葉となった仏です。

著者:池田勇諦(三重教区西恩寺前住職・同朋大学名誉教授)


もうずいぶん前になりますが、あるお宅を弔問したときのことです。家族のみなさんと一緒にお勤めを終えましたら、途端に「なんまんだぶつってどういうこと?」と大きな声で言ったのは、その家のお孫さんでした。思わず、「何という名前?」とたずねましたら、「たけし」とのことです。

「たけし君か、いい名前やね。それはお父さんとお母さんがつけてくださった名前やろ。そのたけし君には、もう一つの名前があるのや。それを“なんまんだぶつ”と言うのや。よく憶えておいてね。おおきくなると、きっとわかるから」。そんな対話が弾んだのです。

ふり返ってみますと、私たちは親からずいぶん立派な名前をもらっています。たいがい「名前負けしていますね」と笑い話になるぐらい立派な名前なのは、そこに親の願いが込められているからでしょう。でもそうした名前も、もともとは他と区別して自分を表す符丁ですから、「名は体を表す」というわけにはまいりません。その意味では仮名です。だから、改名もできるわけです。

しかし、南無阿弥陀仏は「名は体を表す」実名です。なぜなら、私という現前のこの存在の事実がもついわれ・・・を表す名前だからです。それは決して自我意識に生きる私の名前ではありません。「身」としての存在の実名です。それは徹底して自然の法則どおり運ばれている存在なのです。かの清沢満之師はこれを、

自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。

(筆者訳…自己とは他でもない、人間の考えや言葉を超えた阿弥陀のはたらきに運ばれ、自然のままに道理に随って在る現前の事実こそ、真の自己である。)

と告白されています。

蓮如上人がつねに、

この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくわしくしりたるが、すなわち他力信心のすがたなり。                  (『御文』三帖第二通)

と言われていることも、ただ南無阿弥陀仏という六文字の説明を聞けということではないでしょう。それは、“自然の道理にはからわれて、いまここに在るこの身、この存在に、われならざる大いなる法則力・本願力の活動を信知せよ”という教えにちがいありません。

『浄土真宗入門.親鸞の教え』(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2017年版⑫)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2017年版)をそのまま記載しています。

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