「生きるとは」
(名和 達宣 教学研究所所員)

ある晩、ふだんは母親の隣で寝ている四歳の娘が、今日はお父さんと一緒に寝たいと声をかけてきた。私に何か話したいことがあるという。何の話だろうと楽しみにしながらいよいよ寝床についたとき、次のような問いが投げかけられた。

 

 ――人はなんで死んでしまうの?

 

まったく予期していなかった、それでいて人間が生きるうえで最も根本的なことが問われ、大いに動揺した。しかし父として何か答えなければなるまいと考え、「人は生まれたら必ず死ぬんだよ」と苦し紛れの回答をした。娘はしばらく沈黙し、何事もなかったかのように、幼稚園での日常の話題に切り替えた。頷けなかったのだろう。

 

それ以来、あのとき何と答えたらよかったのだろうと、ことあるごとに回顧し、そのたびに自らの幼少期に死への恐怖が芽生えたときのことや、思春期に「なぜ生まれてきたのだろう」と思い悩んだことなどが回想された。そしてある日、遠方へ向かう電車の中で、景色を眺めながら考えていたときに、突然、昨年死別した恩師の顔が浮かび上がってきた。

 

師の名前は中川皓三郎。仏教に学ぶことの基礎を、「どう生きるのか」ではなく「生きるとはどういうことか」を、身をもって教えてくださった先生である。

 

初めて会ったときに、この方には何かを尋ねなければならないという漠然とした想いが湧いた。しばらく経ってから、意を決して部屋を訪ね、無理やりこしらえた質問をぶつけると、「お前の問いには野心がある、色気がある」と瞬時に見破られた。以来、ともに学ばせていただく御縁をいただき、そして何度も何度も叱られた。大学から離れるときに、「どうしても野心が捨てられないんです」と悩みを打ち明けると、「あほか、それが人間や、野心は魅力や」と一喝された。

 

その先生が、昨年の十月、七十七歳で亡くなられた。ここ数年は、お会いするたびに弱っていく様が感じられ、さほど遠くない将来に死別するかもしれない、と不遜な覚悟をしつつも、かつて「わしの方が先に死ぬと思っているやろ、そうはいかんぞ」と言われたことを思い出したりもした。

 

死にゆく姿をとおして「これが人間なんだ」ということを教えてくださったように憶う。

 

そうしてあらためて、娘の問いのことを考え、「今伝えなければ」と思い立ち、妻に次のようなメールを送った。

 

「なんで死ぬのだろう」と考えることは、とても大切なこと。そう問うこと自体がとても尊い。そしてお父さんがいつもお仕事で話したり書いたりしている仏教は、その問いから生まれたのだよ、と伝えてください。

 

もちろん、これで解決できたわけではないし、いまだに正解はわからない。答えは出なくても、その問いに対して、誠実であり続けたいと思う。私が娘に教えることのできる唯一のこと、身をもって伝えなければならないことは、「これが人間なんだ」という頷きであるにちがいない。

 

(『ともしび』2021年4月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)

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