剋念(こくねん)してうまれんとねがうひとと、またすでに往生をえたるひとも、すなわち正定聚にいるなり。これはこれ、かのくにの名字をきくに、さだめて仏事をなす。
(『一念多念文意』『真宗聖典』五三七頁)

 

八十五歳の親鸞聖人が書かれ、真宗大谷派が所蔵する『一念多念文意』は、本文・左訓などほぼすべてが聖人の自筆と認められている仮名聖教です。

 

ここで聖人は、「即得往生 住不退転」と「入正定聚」が共に現生で得る利益であるということを、『浄土論』(『浄土論註』)の妙声功徳によって明らかにされます。妙声功徳とは、浄土から聞こえる音、あるいは浄土という名そのものが、すべての人々を救うはたらきをなしていると述べたものです。

 

 もし人あって、ただまっすぐに浄土がきよらかでおだやかな世界であるといういわれを聞くならば、「そのことを心に刻みつけて浄土に生まれようと願う人も、またすでに往生を得ている人も、即時に正定聚の位に入られる。これは浄土という名そのものが、その名を聞く人々を浄土に導こうという、仏のはたらきをあらわしているのです」、と。

 

未来において必ず実現することが決定したということも、現在においてすでにわが身に実現したことも、どちらも現生で正定聚の位に入っている(すなわち、往生を得る)ということである、と聖人はおっしゃっているのです。

 

この「剋念してうまれんとねがう」の「剋」には「定める」「打ち勝つ」の意味もありますが、ここでは「刻みつける」を意味します。聖人がこの「剋」に「エテトイフ」と左訓を付したのは、浄土という真実の世界のいわれをこころに刻みつけることには「得る」の意味もあることを教えたものでしょう。

 

 この春、震災十年を迎えた東日本大震災の被災地である仙台教区が、二〇一三年より開催した復興支援事業の名は「3・11東日本大震災 心に刻む集い」でした。発災以来、被災地支援と復興を目指してきた二年が過ぎ、震災の記憶が遠くなる兆しが見えはじめた頃、被災地から聞こえてきた声はただ一つ、「忘れないでほしい」という願いでした。

 

被災地の外にいては、大災害の情況や復興の様子は伝えられても、そこに人が生きていたこと、今も生きている人がいることまでは見えてきません。被災地のありのままを見てほしい、どこにいても忘れないでほしい。「心に刻む」というテーマには、この集まりが、それぞれの立場を越えていける「場」となることが期されています。

 

「剋」(刻みつける)を願いとし、そして被災地の思いが仏法と共に広く響きわたることを願い、今年も被災地や全国の有縁の寺院で「勿忘(わすれな)の鐘」がつかれました。この行事のはじまりとなった気仙組本稱寺(岩手県陸前高田市)の梵鐘には「響流十方」と刻まれています。大きなイベントを開催するよりも、それぞれの場所で鐘をつき、その響きを感じることで離れていても忘れないでいる、つながりを感じ続ける。そのような願いが込められています。

 

今年の震災の日、原町別院(福島県南相馬市)では「勿忘の鐘」に先だって、震災七回忌を祈念して作成された「表白」の拝読がありました。

 

全国に鳴り亘(わた)る勿忘の鐘の響きが、十方に谺(こだま)する微妙の音となり、浄土往生の願いを共にせんことを

 

この鐘の音は、追悼の音ではなく浄土の響きであり、復興像を模索しながら生きる人々と、ともに往生浄土の道を歩んでいこうという願いが、その覚悟が「表白」として記されています。

 

刻みつけること、忘れないことが、浄土からの呼びかけであることを、聖人の言葉からあらためて想い起こしておきたいと思います。

 

(教学研究所研究員・御手洗隆明)

([教研だより(179)]『真宗2021年6月号』より)