差別と疫病
(新野和暢 教学研究所嘱託研究員)
新型コロナウイルス感染症の感染者や死亡者が数字として発表されるようになってから、一年半以上経ちました。感染の拡大と縮小という繰り返しの波の中、真宗門徒の間で蓮如上人の「疫癘の御文」が読み返されているのではないでしょうか。どの様な死を迎えたとしても阿弥陀仏のはたらきによって救われる、という真実を伝える御文として知られていますが、差別する「私」自身を見つめる視点からもその真意を確かめることができると私は考えています。
癘は「ひどい手段でころす」という動詞としての意味を持っています。このことから、むごい死に方をする流行病が拡がっていたことが知られます。この御文が書かれた延徳四(一四九二)年六月の約一ヶ月後にあたる七月十九日には「明応」へと改元されています。この時の疫病はとりわけ深刻で、文明十八(一四八六)年の頃に始まり、約七年間続いたようです。その間に二度も改元されています。元号を改めることによって、凶事を断ち切ろうと、為政者が考えてのことでした。各地の寺社で行われる厄除けの祈祷を横目にし、「驚くべきことではない」と蓮如上人は喝破したのです。
さて、現在のパンデミックにあたって、私が勤める学校内でも感染者や濃厚接触者の報告を経験しました。知らせを受けると直ちに感染の拡がりを調査し、対策を講じます。臨時休校になることもありました。その過程で特に注意を払っていることは、情報公開の在り方です。
二次感染を防ぐ目的において、周知されるべき情報がありますが、そこに強い思いが入り込み過ぎるのは危険な面もあります。「感染したくない」という素朴な思いが強くなればなるほど、より多くの情報を得たいという心理が働くものです。しかし、必要最低限に留め、個人の特定に至る情報を避ける必要があります。それは、感染者に対する差別や偏見、誹謗中傷などを避けるためです。
残念なことに、感染者やその関係者に対する差別は後を絶ちません。感染を周囲に伝え、相談することすら出来ない人も少なくありません。私自身、体調不良で休まざるを得ない時に、新型コロナウイルスではないことを必要以上に説明してしまいます。それは感染症への偏見を持っているからこそ、言い訳をするのです。それでも周囲は必要以上に私の病状を分析し、私に関係する人までも遠ざけられた悲しい経験もありました。しかも、私自身も同じ事を他人にしてしまいました。
今回のパンデミックだけでなく、私たちは他人の人生を評価するだけに飽き足らず、死に至る直前のプロセスまでも取り上げてしまいがちです。しかし、いかなる病縁や災害、事故等によって死に至ったとしても、救いの妨げにはなりません。「疫癘の御文」は、そう指摘しているのではないでしょうか。
(『ともしび』2021年9月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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