祖母の思い出
著者:長 紀子(京都教区願念寺衆徒)
お寺のお彼岸の法要の準備を始める頃、祖母の命日を迎える。私が小学校に上がる前に亡くなったが、今でも祖母のことを思い出す。
ひらがなは、祖母が繰り返し読んでくれた絵本で覚えたらしい。「またこれか」と言いながら、何回も何回も読んでくれていたそうだ。
合掌、正座、念珠。法座に参る時の姿勢を教えてくれたのも祖母だった。強制することはなかったが、祖母の姿を見てなんとなく覚えたのだと思う。
何よりの学びは、祖母という老人の存在を知ったことだった。私よりずっと前からここにいて、髪は白く、足の運びも遅く、顔や手足に深いシワが刻まれている。
日当りのよい縁側で、シワだらけの手と私のもみじの手が遊ぶ。祖母はシワだらけの手をつまんで見せてくれた。痛みもないらしく、つまんだ皮膚はゆっくり戻っていった。
「おばあちゃんの手は紀ちゃんの手と違って、こんなんなるで~」。
祖母は笑いながら見せてくれた。私も引っぱった。面白かった。早く祖母の手になりたいと思った。もみじの手は痛い。
優しい思い出とともに、祖母は亡くなった。私もこうなるのだ。年老いて動きは鈍くなって、見た目も別の生き物のようになるのだ。そして、死んでいくのだというメッセージを残して。
祖母の命日に必ず読む「御文」がある。
それ、倩人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、
さかんなるものはついにおとろうるならいなり。(『御文』三帖目四通)
蓮如上人の一言一言に耳が痛い。わかっていることだけれども、祖母にもきちんと教えてもらっていることだけれども、何とかして、老人になりたくない。自室の化粧品、サプリメント、健康グッズの山が物語る。
しかし、どんな抵抗をしても、生きていればいずれ私にもその日は来るのだ。
弥陀如来の本願にあいたてまつらずは、いたずらごとなり。
(『御文』三帖目四通)
私はまだ出遇えない。祖母を思い出しながらお彼岸の法要を勤める。如来の本願を聞く。
東本願寺出版発行『お彼岸』(2018年秋版)より
『お彼岸』は、毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『お彼岸』(2018年秋版)所収の随想の一つをそのまま記載しています。
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