報恩講さまと私

著者:西川和榮(大阪教区第二十一組 願正寺門徒)()


 少しずつ歩くことを(おぼ)えた(おさ)()のふっくらしたお(なか)()でながら「()のポンポ(お腹のこと)だれにもろうたがや、いいポンポやねぇ。なんなちゃん(仏さま)にもろうたがやねぇ」。

 言葉も未だおぼつかない子を相手にして、ほほ()みかけるおばあちゃん方の声でした。

 「ほりゃ、みまっしみまっし(見なさい‼)」。囲炉裏(いろり)から()ち昇る紫色の煙の中に浮く塵埃(ちりぼこり)を、(わら)をくべる火箸の先で指しながら、「あの煙の中に浮いとる細かい(ほこり)の一粒一粒が、ほとっさま(仏さま)ながや」。ほおー、と雪囲(ゆきがこ)いの囲炉裏(ばた)で聞きました。仏さまを吸いながら、腹を立てたり、思い通りにならんことに出会っては、困り果てた少女時代でした。

 ()のどうもならん身はどこから来て、どこへ行くのか、それが少女の課題になりました。時、場、を(たま)わり執拗(しつよう)に仏法聴聞(ちょうもん)の日々を送らせていただきました。

 阿弥陀の無量光、無量寿のおんいのちが、今、()のいのちになり賜いて、脈打って下さっとるなぁ、脈打っとるのを当り前にしとったなぁ~。大悲(だいひ)ものうきことなくて、この身となりましまして、お念仏を申しやすい様に、おかゆさんになって、()み込んで下さっているのでありましょう。阿弥陀のおん(はたら)きが、この私の血となり脈となり、()(どう)下さっているのでありましょう。九十年の生涯を通し苦難の中から、それをお教え下された親鸞(しんらん)さま。

 「(ああ)()(ぜい)(ごう)(えん)、多生にも(もうあ)いがたく、真実の(じょう)(しん)億劫(おっこう)にも()がたし。(たまたま)(ぎょう)(しん)を獲ば、遠く宿縁(しゅくえん)(よろこ)べ」(『教行信証』「総序」)と。(もうあ)うというのは、()うことがあり得ないのに値ったという希有(けう)さ。南無阿弥陀仏の(ひびき)の中で、()の身に呼吸となり賜いての如来(わざ)。そのおん(はたら)きを親鸞さまはその身を通しておっしゃって下さいました。

 「報恩講」の厳粛(げんしゅく)なお勤め。御本堂一杯のその響きの中に、身を()めさせて(もろ)うて、うねりの様に(しょう)せらるるお念仏を、百八十億個あると(なろ)うた()の身の毛穴からも聞かせていただきます。罪悪(ざいあく)深重(じんじゅう)に泣いた身へ成就下されたる御名号。六十兆の細胞のおん(はたら)きとなり賜うて南無阿弥陀仏は、み声となりまします。「三帰依文」の冒頭で「人身(にんじん)受け難し」と表現していただいているところの、「(じん)」の発音は如来(わざ)をおっしゃろうとしての(あら)わし方だと聞き習うてきました。  

 名号と言われるお徳の(ひびき)()()いつづけての、一呼吸一呼吸。如来業と言われている如来のなし賜うおん用き。なんなちゃん(仏さま)にもろうた(からだ)と、湧いてくるこころで迎える報恩講さまでございます。


東本願寺出版発行『報恩講』(2018年版)より

『報恩講』は親鸞聖人のご命日に勤まる法要「報恩講」をお迎えするにあたって、親鸞聖人の教えの意義をたしかめることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『報恩講』(2017年版)をそのまま記載しています。

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