「存在を祝う言葉」
(教学研究所研究員・中山善雄)
もうはるか以前のことになりますが、ある若い夫婦がお子さんを授かりました。生まれた子は重度の障害をもっておられ、ご両親はその子を大切に育てましたが、幼いときに命を終えられました。
お子さんが亡くなって一年を迎えた時のことです。そのお母さんは、こうおっしゃいました。「一番つらかったのはこの子が生まれた時、私自身がこの子の誕生を心から祝福することができなかったことです。そして、医者からも、看護師からも、父親からも、誰からも〈おめでとう〉と言われなかったことです」と。生まれたことを祝福されず、言葉を発することもないまま亡くなっていった、この子の生涯は何であったのかという思いがあったのでしょう。そのことへの苦悩ゆえに、人と生まれた意味をたずねゆく聞法生活が始まったのでした。
『仏説無量寿経』(『大経』)には、菩薩の生涯を八つの相(すがた)で表した箇所があり、そのなかの「降誕」には、次のような言葉があります。
「世」とは、優劣・尊卑など、さまざまな価値観により評価を受ける世間のことでもあります。私たちは、その世間に人として生まれます。そして、世間の価値観を自分のものさしとし、自他に向けてしまいがちです。右の言葉は、そのような「世」において、無上の尊さ、比較を超えた尊さに目覚めることを誓う言葉であるのでしょう。
『大経』ではまた、法蔵菩薩が五劫という長い時のあいだ思惟し、四十八の願を起こされます。そして浄土教の祖師がたは、念仏によるすくいを誓う第十八願を、その根本の願(本願)として見出してこられました。
五劫という時の長さはまた、人間の苦悩の歴史の長さ・深さをも物語っているように感じられます。その歴史のなかで、人々によって、いかなる条件もつけず、見捨てない本願の名として仰がれてきたのが、南無阿弥陀仏という言葉であるのではないでしょうか。
そのように人々が本願の名を仰いできたもとには、如来による「選択」があります。法然上人は、称名念仏を浄土往生の行として如来が選び取られたという意味で、第十八願を「選(せん)択(じゃく)本願」と呼ばれています。そして『選択本願念仏集』の「本願章」では、そのように如来が選択される背景に、富める人と貧しい人、才知ある人と乏しい人などがえらびわけられる現実のあることが記されます。選択本願念仏は、そのような現実に身を置く人々に解放とともに、無上尊となる願いを与えるものであったのでしょう。
南無阿弥陀仏という言葉によって、阿弥陀如来は私たちに、「汝一心に正念にして直ちに来れ」(同二二〇頁)と呼びかけます。ある先学はこの呼び声を、「オネガヒダカラ スグキテオクレヨ」と聞き取られました。それはあらゆる存在へ無条件に呼びかけ、存在を慶び祝う言葉ではないでしょうか。そして、その言葉に促されて私たちの内に、人々をえらびわける自らの心、世の現実に対する悲しみが生み出されていきます。私たちはその言葉に出会うために、生を受けたのではないでしょうか。
(『真宗』2021年12月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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