回心というは 自力の心を ひるがえし すつるをいうなり
法語の出典:「唯信鈔文意」『真宗聖典』552頁
本文著者:宮部 渡(大阪教区西稱寺住職)
親鸞聖人のこのお言葉にふれる時、私は過去の二つの対話を思い起こします。
一つ目は数年前、本山の同朋会館で教導として携わっていた時、ご一緒したご門徒さんとの清掃奉仕中の会話です。「今日はせっかく記念撮影を予定されていましたのに、天気が悪くて残念でしたね」と私が切り出すと、それを聞いたご婦人が「私らの地方では、雨が降ったら天気が悪いとは申しません。結構なおしめり、と申します」と返してこられました。この言葉に、はっとさせられました。この奉仕団は北陸の米どころの方々で、〈雨=いのちの水〉が我々にとってどれほど大切なものかを先祖代々身にしみて生活してこられたのでした。その土徳のなかで育った人にとって、私の、ただ写真を撮るという目先の都合で発した、〈雨=天気が悪い〉の一言がさぞかし不謹慎な言葉に響いたことでしょう。随分恥ずかしい思いをしたものです。
二つ目は亡き父との晩年の対話です。十八年前、長年住職不在のお寺に迎えていただいた私は、なんとかお寺に活気をと、今よりも血気盛んだったと思います。しかし、そうそううまくいくものではありません。役員さん達の反対意見にあうこともしばしばです。どうしてわかっていただけないかと思い悩む私に、たまたま訪ね来た父が私の顔色を察し「思いどおりにならんことがあるのか?」と語りかけてきました。そしてこう続けました。「なぜ思いどおりにならないか教えてやろうか。それは、君が思っていることの方が間違っているからです」と。正直この言葉に腹が立ったのを覚えています。私の考えている内容も聞かず、頭ごなしに私と反目する方の肩を持つのか、という気持ちだったと思います。
今は、父が私に伝えたかったことが少しわかる様な気がしています。それは、「私の思うこと=お寺を良くしたい」、その向上心といえるものは、お寺のため、ご門徒のためと思う心の出発点に嘘はないのかもしれません。しかしそれは、必ず名聞(世間体)利養(算盤勘定)勝他(競争心)と道づれです。「たりき たりきと おもうていたが おもうたこころが みなじりき」妙好人、森ひなさんの言葉です。傍から観ると一人相撲であったのです。
『歎異抄』第三章では「自力の心(こころ)をひるがえして、他力をたのみたてまつれば」(真宗聖典六二七頁)とあります。この「他力」は第一章でいうなら「弥陀の誓願不思議」でありましょう。あらためて父の言葉を思い起こしてみると、「君が思っていることの方」=自力の心、その反対側のもう一方は、わたしに反対意見の人たちを指しているのではなく、「他力=弥陀の誓願不思議」を指していたのでした。一人の〝信〟が問題になっているか? と、問うてくれていたのでした。
とは申せ、今日も窓の外の雨に、「外出せねば、早くやんでくれ」とつぶやく私に自力の心は捨てられそうにありません。そんな私にさえも〈雨=いのちの水〉は程よく降ってくださっています。生きる方向を如来の願いへ向けられた、先人の歩みに思いを馳せ、ただただ念仏申すほかありません。
東本願寺出版発行『今日のことば』(2018年版【4月】)より
『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2018年版)発行時のまま掲載しています。
東本願寺出版の書籍はこちらから