北海道教区 名願寺住職 名畑 格



お彼岸の時期には多くの寺院で「彼岸会」の法要が勤まります。「彼岸」とは阿弥陀仏のさとりの世界―浄土を意味します。「会」はあうということです。『仏説阿弥陀経』に、「俱に一処に会する」という言葉がありますが、彼岸と出会う場所が今ここ(此岸)に開かれている、そういうことを確かめる場が「彼岸会」だと言えます。


2011年に発生した東日本大震災の後、たくさんのボランティアが被災地に入っていきました。その時、私たちは口々に「あなた方のことは決して忘れない」と言いました。しかし、その優しさにあふれた言葉を聞きながら、被災された一人のお母さんがこう仰ったそうです。「あなた方は「私たちのことを忘れない」と言う。それはありがたい言葉です。しかし私たちは忘れることが出来ないんだ」。衝撃的な言葉でした。悲しみの中で死者と共に生きている被災者と、復興を急ぎ、生者しか見ていない私たちとのギャップを突かれたような気がしました。


ある先生が、「人間は命が終わると「死者」として生まれる」というお話をされましたが、死者が生まれると同時に「死者と共にある生者」もまた生まれてくるのでしょう。


今から13年前、義父(前住職)が悪性リンパ腫で亡くなっていきました。危篤の知らせを受け、慌てて自宅から200キロ余り離れた病院まで車を走らせました。義父は私の顔を見るなり何かを懸命に伝えようと声をあげていましたが、言葉になりませんでした。しかし同じ言葉を2回繰り返して言ってくれたので、口の形だけで内容を知ることができました。


「アトヲタノム、アトヲタノム」


「後をたのむ」でした。「わかったよ。わかったよ」と、私は即座に答えました。


義父の最後の言葉を今も考え続けています。「いったい何をたのまれたのだろうか」。このことが私の大きな課題となりました。家のこと、お寺のこと、それとも宗門のことだろうか。今ではそれらを含めて「この世」のことではないだろうかと考えています。よく考えてみると「後をたのむ」とは何かしらの「願い」があって初めて成立する言葉です。一人の一生をもってしても終わりのない願い。一生をかけても悔いのない願い。この時の「後をたのむ」には後悔の意味は少しも入っていなかったのではないかと思います。やり残したから後をたのむのではない。やり尽くしたからこそ「後をたのむ」なのでしょう。義父が出会ったものの大きさを考えさせられます。


「人間は三度死ぬ」とは満中陰(四十九日)の時によくお話しさせていただく話です。一度目はいのちの終わり、肉体の死です。二度目は社会的な死、葬儀をして死を公にします。また四十九日の間にも戸籍の抹消、通帳の名義変更など、名前を消していく作業をします。これが社会的な死。三度目は身内の者、友人に忘れ去られる死です。


私たちが法事を勤める時、日々の忙しい生活の中に死者を忘れていても、記憶を呼び起こして死者と出会い直すのは、その三度目の死を拒否し、死なせないということなのではないでしょうか。忘れていたという申し訳なさとともに死者の声に向き合うことこそ、その声の背景にある如来のこころにふれていくことなのだと思います。それは同時に、彼岸から照らし出される此岸の「私」に会うことなのだと教えられます。



東本願寺出版発行『お彼岸』(2018年春版)より

『お彼岸』は、毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『お彼岸』(2018年春版)所収の随想の一つをそのまま記載しています。