雑毒の善をもって かの浄土に回向する これ必ず不可なり
法語の出典:「浄土文類聚鈔」『真宗聖典』416頁
本文著者:青柳英司(親鸞仏教センター研究員。東京教区西寳寺衆徒)
これは親鸞聖人の、『浄土文類聚鈔』にある言葉です。
「雑毒の善」というのは聞き慣れない表現ですが、「毒の雑った善」という意味です。ここでの「毒」は、煩悩を指しています。つまり「煩悩を持ったままでは、いくら善行に励んでも決して往生できない」という私たちの事実を、ずばり指摘しているのが、この言葉なのです。
ただ、「雑毒」であろうと善は善です。悪ではありません。悪事をはたらけば地獄に落ちて、善行を積んだら往生できる。こういう話なら、とても簡単です。けれど親鸞聖人は、善の質を問題にしました。これは、どうしてでしょうか? 頑張って清らかな善を積めと、そう言っているのでしょうか?
しかし私たちの煩悩は、決して無くなるものではありません。自分に無いものを欲しがり、自分が嫌うものを遠ざけ、自分の意に沿わないものへ腹を立てるのが、私たちの現実です。そうであるなら、私たちが行う善も全て、「雑毒」なのではないでしょうか?
これに関して親鸞聖人は、「頭が燃えた人の喩え」を出しています。
もしも間違って、髪の毛に火がついてしまったら、どうするでしょうか? 早く消さなければ、火だるまになります。他のことに気を配る余裕なんて、きっとありません。転がり回るか、水に飛び込むか、私だったら必死になって火を消しにかかるでしょう。でも、同じような必死さで「雑毒の善」に励んだとしても、決して往生できないと親鸞聖人は言うのです。それが、「これ必ず不可なり」という言葉です。
なぜなら阿弥陀仏の浄土は、煩悩の穢れを離れた涅槃の世界だからです。人間がどれだけ「雑毒」の行為を積んだとしても、そこへは決して届きません。それは汚れた油を集めて、清らかな水を得ようとするようなものだからです。つまり私たちは、焼けて死ぬしかないのです。
しかしこれは、単なる絶望を語っているわけではありません。「これ必ず不可なり」という衆生の現実は、如来によって見出された私たちのすがたでもあるからです。私たちは生まれも、才能も、境遇も、千差万別です。しかし浄土には、どれだけ大金を貯め込んでいても、いかに優れた才能を持っていても、決して往生することはできません。その点で浄土は、あらゆる人間にとって平等なのです。
そして「必ず不可」である衆生の現実を担い、浄土に往生させようとするのが、阿弥陀仏なのです。ここに、大きな転換があります。人間の自力では決して往生できない世界だからこそ、阿弥陀仏の浄土は誰にとっても、他力で帰すべき世界なのです。この点でも浄土は、あらゆる人間において平等です。
言い換えるなら私たちは、「必ず不可なり」という自覚によって、あらゆる衆生に往生を「必ず可能」にさせる平等の大悲を知ることになるのです。焼け死ぬしかないと自覚するところに、本当は清らかな水が、海のように与えられていたという事実に出会うのです。
親鸞聖人の「これ必ず不可なり」という厳しい言葉は、実はその感動を表現したものでもあったのでしょう。
東本願寺出版発行『今日のことば』(2018年版【7月】)より
『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2018年版)発行時のまま掲載しています。
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