まことの信心の人をば 諸仏とひとしと もうすなり

法語の出典:「御消息集(善性本)」『真宗聖典』588頁

本文著者:伊東恵深(三重教区西弘寺住職)


このお言葉は、親鸞聖人が門弟からの問いかけに返信されたお手紙の一節です。「〈信心をえた人は如来と等しい〉といわれる所以を、詳しくお教えください」という質問に対して、聖人は「阿弥陀如来の本願を信ずる心(=信心)が定まるとき、私たちは摂取不捨の利益に恵まれます。この心が定まることを、十方の諸仏はよろこばれ、諸仏のお心と等しいとお讃めになります。だからこそ、〈真実の信心の人を諸仏と等しい〉と申し上げるのです」とお答えになります。

それでは、「まことの信心をえた人は、諸仏や如来と等しい」とはいったいどういう意味でしょうか。そもそも「信心」とは何でしょうか。念仏詩人の竹部勝之進さんに、「仏様から戴いた眼」と題する詩があります。

仏様から戴いた眼
その眼はわが身の見える眼
ああ
かたじけない かたじけない
(法藏館発行『詩集 まるはだか』八二頁)

ここに、「まことの信心」とは仏さまの眼を頂戴することであり、それは私自身のありのままの姿を知らされることである、と詠われています。私たちは煩悩を消し去って仏となるのではありません。仏眼(仏智)を賜ることによって、わが身の分限を知り、自分を偽ったり飾ったりすることなく、愚かな凡夫の身のままに生きていくことができるのです。そのありさまを、「諸仏と等しい」と教えてくださっているのではないでしょうか。

親鸞聖人のお返事は、冒頭のお言葉に続いて次のように述べられています。

「十方の諸仏は、まことの信心の人を、この世において(、、、、、、、)お護りになります。ですから『阿弥陀経』には、無数の諸仏が信心の行者を護念すると説かれているのです。これはお浄土に往生してからの話ではありません。この娑婆世界において(、、、、、、、、、、)護ってくださるのです」(意訳と傍点は筆者)。

信心の行者に恵まれる諸仏護念の利益、それはこの苦悩の現実のただ中に成就することが明確に示されています。ふたたび竹部さんの詩に尋ねてみたいと思います。

われいまここにあり
われいまここにありて
このまま
このまま
このままで宝の山にいるごとし
(「このまま」前掲書九八頁)

「信心をうる」とか「諸仏と等しい」というと、娑婆での悩み事がなくなったり、苦しみが消え失せたりすることのように思いますが、けっしてそうではありません。阿弥陀さまの教えによって、いま現在の自分に不平や不足を感ずることなく、このままでよい、このままで尊い、という身の事実に気づかされることでしょう。

浄土真宗の信心とは、「煩悩のこの身がありがたい、かたじけない」と深く頷かしめられることです。そして、そのよろこびの世界に目覚めた人のことを、親鸞聖人は「まことの信心の人をば 諸仏とひとしともうすなり」と教示されるのであります。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2018年版【9月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2018年版)発行時のまま掲載しています。

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