法事を勤めるということ
著者:伊藤 元(日豊教区德蓮寺前住職)
私たちは、人が亡くなると葬儀を執り行い、そしてその後、ご法事をお勤めします。そのご法事は、お墓の前ではなく、お内仏の前で行います。寺で行う場合はご本堂で勤めます。それはなぜでしょうか。
人間の魂をあらわす言葉には、「魂(こん)」と「魄(はく)」という字の二つがあります。どちらも「たましい」と読みますが、「魂」という字は、人間の生存を司る〝精神的〟なものを、また「魄」という字は、人間の生存を司る〝肉体的〟なものをあらわします。人が亡くなったことをよく、「大地に帰りました」という言葉を聞きますが、土に帰るのは「魄」の方です。大地に帰った魄を祀るところがお墓です。しかし、人間の精神的なものを司る「魂」の方は、亡くなっても大地には帰りません。
真宗では、浄土に還(かえ)ると言います。その浄土をあらわしたのがお内仏であり、お寺でいえばご本尊のあるご本堂です。まずは、このことを区別していただきたいと思います。
お墓というのは、亡くなった人との思い出を偲ぶところです。ですので、知らない方のお墓に参っても思い出すことは何もありません。亡くなったお父さんはいい人だった、お母さんは優しかったと、思い出を尋ねるところがお墓でしょう。お墓はお参りをする方が主なのです。そして、そのことをとおして仏様の教えをいただいていくのです。
それに対してお内仏やご本堂は、こちらから思い出をたぐるところではありません。亡くなった方からの限りない呼びかけに遇うところです。
ご法事を、お墓の前でなく、お内仏の前でお勤めするということは、亡くなった人とあらためて出遇い直すということです。亡くなった方がどういう願いで生きておられたのか、また自分にどんな願いをかけていたのか、そういうことに出遇うところでしょう。
ですから、お内仏の前でご法事をするということは、こちらから亡くなった方に「どうぞ静かにお眠りください」という、そういう行事ではないのです。また、世間では、「亡くなった人には、お経が一番のご馳走だ」などと言う方がおられますが、お経とは仏様の教えが書かれたものです。亡くなった人は迷いの根がなくなり、仏様のもとに還ったのですから、むしろお経を聞かなくてはならないのは、生き残されている私たちなのです。南無阿弥陀仏もそうです。呪文でもなければ、亡き方に向けて称えるのでもなく、仏様が私たちに「助かってください」と呼びかけているのです。その呼びかけに応答するのがお念仏でしょう。つまり、ご法事をお内仏の前で勤めるのは、亡き人からの願いに遇い、また仏様の教えやその呼びかけに出遇う、大切なご縁なのです。
『ご法事を縁として -亡き人からの願いに生きん-』(東本願寺出版)より
東本願寺出版発行『真宗の生活』(2018年版⑩)より
『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2018年版)をそのまま記載しています。
東本願寺出版の書籍はこちらから