如来誓願の薬は よく智愚の毒を滅するなり

法語の出典:『教行信証』信巻『真宗聖典』236頁

本文著者:藤原智(教学研究所助手・大阪教区法山寺)


われわれが日々の生活で願っていることは何だろうか。それは、今日が平穏無事な一日であってほしい、というものかもしれない。それとともに、例えばニュースなどで遠く見知らぬ人の悲惨な様子を知ることがあれば、そこに悲しみと共感を覚える。その時、あらゆる人が健やかでお互いに尊厳と敬意をもち合う社会であってほしい、そういう願いがわれわれの深いところに生きているのだろうと思う。


大げさなことを言えば、文化・芸術・科学・経済・政治といった人類の歴史は、実のところこの心の深いところにある願いに立って、より良い社会を追い求め続けてきた証であったのではないか。


けれども、われわれの社会は痛ましき事実の連続である。その原因を仏教は、貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴(おろかさ)と教える。これを三毒とも言う。毒とは、それがわれわれの生存や社会を汚し痛めつけるからである。


必要以上に自分の欲求を押し出し、思い通りにならなければ腹を立てる。その根っこには、自分の思いを正しいものとして顧みることがない愚かさがある。このわれわれの思いが、奥深くにある本当の願いを覆い隠していってしまう。


だからこそ、仏教では智慧というものが大事にされてきた。あるお経には、この愚かさ・無智という毒を消滅させる薬として、仏の智慧が意味深く語られている(『華厳経』)。


智慧は愚かという毒を取り除く。けれども、親鸞聖人は「智愚の毒」と言う。愚かという毒とともに、智もまた毒だというのである。それは仏智ならぬ、人間の智であろう。そこに、親鸞聖人が見つめられたより深い痛ましさがある。


より良い社会を求め、われわれの歴史は人智を尽くしての営みを続けてきたし、これからも続けていくだろう。現代のわれわれは、その非常に大きな恩恵を蒙っている。


そうしてより良いこと、より価値のあるものを求める。そういう思いにあまりに慣れ親しんだ時、われわれはある思い違いをしてしまう。いつの間にか、人に対してもそういう思いで見てしまっている。つまり、価値のある人、価値のない人。そういう物差しで他人を、自分を、計っている。本当の願いとは裏腹に、人を否定してしまうことにもなる。


人間の智は、より良いものを求めるということを止めることはできない。その人智が、時にわれわれの生存と社会を痛めつけることにもなる。そのことに、親鸞聖人は心苦しまれた。


親鸞聖人が救いの道を見出されたのは、法然上人(源空)に出遇 われてのことであった。法然上人は、あらゆる衆生を隔てなく平等に救おうとする阿弥陀仏のお心(誓願)、そのこと一つを人びとに説いておられた。そのお姿を、親鸞聖人は次のご和讃にしておられる。


源空光明はなたしめ 門徒につねにみせしめき
賢哲愚夫もえらばれず 豪貴鄙賤もへだてなし
(「高僧和讃」真宗聖典四九九頁)


自らを愚痴の法然房と呼び、現にあらゆる人々と隔てなく、共に阿弥陀仏のお心を喜ばれた法然上人。そのお姿をとおして、「智愚の毒」という人間の痛ましさを超えていく光を見出されたのである。



東本願寺出版発行『今日のことば』(2019年版【1月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2019年版)発行時のまま掲載しています。

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