今、その人の声を聞く―上―
「真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会」第二連絡会委員 長井 誓子
■コロナ下での交流の難しさ
新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響で、療養所の方と直接会っての交流ができなくなって約二年が経過した。その間、私の地元である金沢教区では、ビデオ上映でハンセン病問題について学ぶ機会を持ち、次はどうにか園の方との交流ができないかと模索していた。他の連絡会で企画・開催された、Zoomを利用した園の方とのオンライン交流会に参加させてもらったことに刺激を受け、私たち第二連絡会でも歩みをとめてはいけないと思い、話し合いの場をもった。
念願がかない、オンラインではあるが、多磨全生園にある同朋の会「真宗報恩会」の入所者の方と交流する機会を設けることができた。第二連絡会では何度もお話を聞かせていただいている方であったが、コロナウイルスが流行するようになってからはお会いすることができておらず、久しぶりの交流となった。企画当初は、園の外で少人数でお会いし、直接お話を聞く予定をしていた。しかし、第七波といわれる感染拡大の影響から、多磨全生園の職員の方に全面的にご協力をいただき、一時間という限られた時間ではあったが、完全オンラインで、園と私たちをつないでの交流会となった。当日は、第二連絡会以外の委員や、教区の方々にもご参加いただき、貴重な時間を共に過ごすことができた。
なお、オンラインでの開催にあたり、入所者が安心して話すことができる環境づくりに配慮した。
■無菌でも療養所へ
最初は生い立ちについて話をうかがった。入所者の方は幼い頃に発症し、京都大学の皮膚科に通っていた。そこで、「ハンセン病は強力な感染症じゃない」と、国の隔離政策に抵抗していた小笠原登医師に診てもらったそうだ。その時、小笠原先生が素手で診察されていたことや、隔離政策から患者を守るために診断書にはハンセン病と直接書かなかったことなど、小笠原先生との思い出を語られた。しかし、小笠原先生が奄美に転任となり、他の先生に代わると、「特効薬であるプロミンが効いて無菌であったとしても、療養所に行かなきゃいけない」と告げられたという。また、子どもながらに、「なんで病気じゃないのに療養所に行かなきゃいけないのかな」と思ったと言われていた。
その後、16歳で岡山にある邑久光明園に入所された。そこは療養所とは名ばかりで、比較的後遺症の軽い患者は、重い患者の下の世話や食事の世話をしなければならなかった。辛くて海に飛び込んだこともあったが、死ねなかったという。それから結婚を機に、海を見なくていい東京の多磨全生園に夫婦で移られた。「陸続きで安心した」と思ったとのことだ。以前、邑久光明園に通っていたことがある私は、あのきれいな海が入所者にとっては苦痛だったのだと知った。
ふるさとに妹さんはいるものの、多磨全生園での生活の中での依り処は真宗報恩会の手伝いと、そこに集う仲間だったという。コロナが流行する前は、数年に一度はふるさとに帰り、妹さんや親類とも会っていたそうである。しかし、親が亡くなり、さらにこの二年はコロナの影響で移動が難しくなったことから、妹さんとはたまに電話するだけになったそうだ。
■死んでも国に抵抗し続ける
今回のお話の中でも聞くことができた内容だが、2011年4月に京都で開催された第8回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会において、入所者の方は参加することができなかったため、分科会で次のメッセージが代読された。
「今、月まで行ける時代に、私たちは骨になってもふるさとのお墓に入れません。私は初めて、国に逆らいます。私の骨は園内の納骨堂ではなく、ふるさとのお墓に入れていただきます。」
衝撃だった。他の支援者も、今までそんな話は聞いたことがないと言われていた。きっとこれまでの僧侶との交流を通して、話してくれたのだと思う。この言葉は、集会が開催される直前に起きた東日本大震災で、同じ国策である原発の事故の直後だからこそ、大谷派の開催する交流集会において、どうしても国に対しての最後の抵抗と、大谷派の僧侶やその場に集った人々へ、ふるさとにいる僧侶へ、まだ仕事が残っているんじゃないかという問いかけだと、私は受けとめている。
■骨になってもふるさとに帰りたい
お話をうかがった入所者の方は、妹さんから「一緒にお墓に入ろう」と言ってもらったそうだ。しかし、そのような話は稀である。真宗報恩会の会員が亡くなる前にふるさとに帰りたいと願われ、入所者がケースワーカーに頼んで会員の実家に行ってもらい、家族に面会に来るように伝えたが難しく、自分の骨を園の納骨堂には納めたくないと、精神状態が不安定になる方もおられたという。亡くなっても家族がお骨を持って帰らず、入所者が家族の代わりに一人で東本願寺に納めに行った話をしてくれた。位牌を園の納骨堂に納めるのが一番つらいと言われ、今まで亡くなった方々の位牌に貼ってある紙を棄てることができず、部屋に置いてあり、それをどうしようかと言われていた。
その話を聞いて、今まで僧侶の私たちがしなければいけないことを、代わりにずっと向き合い、寄り添ってくれていたのだと実感した。その後に言われた「一人の人の人生、取り返しがつかないですよ」という言葉は、本当に重い言葉だ。
1996年以降、大谷派は今も謝罪をし続けている。入所者の方たちを療養所へ閉じこめてきたのは、ふるさとにいる私たちだ。だからこそ、僧侶のかわりに従事してくれた回復者の方たちやその家族や親戚が、自分の家族にそんな歴史があったことを茶飲み話として語れるまで、活動を続けていきたいと思う。入所者の方から「一人の人の人生」の“重み”を聞いた者として、その活動こそが謝罪を形にしていく歩みではないかと考えている。
真宗大谷派宗務所発行『真宗』2022年11月号より