大事な忘れ物
著者:藤井慈等(三重教区慶法寺前住職)
過日、久しぶりに京都の友人を訪ねました。妻の病状のことや、「あの人が亡くなった」「この人が病気だ」とか、そんなことが話題になりました。そんな年齢になっているのだなと感慨にひたりながら、互いに「お大事に」と言って、別れを告げましたが、眼鏡を忘れたと思って、応接間に戻り見渡しますが、どこにも見当たりません。友人に「私の眼鏡を見なかったか」と聞きますと、「いや見なかったけどなあ」と言って、一緒に探してくれました。ところが、ふと目元に手をやりますと、眼鏡をかけているのです。眼鏡をかけて眼鏡を探していたのです。友人も友人で、一緒に探してくれるものですから、ついに二人で大笑いをしました。笑いながら、忍び来る老いに一抹の寂しさのようなものを感じ、「灯台もとくらし」とはこのことかと思い知らされました。
生きてあることはただならぬことだと言っても、言ったそばから忘れるのが、私たち、いや他ならぬ私の姿であります。
「医者の傲慢、坊さんの怠慢」とおっしゃる、京都の医師早川一光さんは、「私の日々の医療の中で〝祈りの心〟がうせて久しい。ここでいう祈りとは十字でも合掌でもない、もっとそれ以前の、生きていることに摩訶不思議さを感ずることであり、生命に対するおそれおののきをしみじみと知ることである。医療に祈りを失ったときは病を診て病人を見ず、病人を診て人間を見なくなったときである。恐ろしいことだ」(『畳の上で大往生』ふたば書房)と書いておられます。
親鸞聖人は『教行信証』行巻に、「帰命すなわちこれ礼拝なりと。しかるに礼拝はただこれ恭敬にして、必ずしも帰命ならず。帰命は(必ず)これ礼拝なり」(真宗聖典一六八頁)という『浄土論註』の言葉を引いておられますが、「拝む」ということと「拝むこころ」の問題でありましょうか。早川さん流に言えば、「恐ろしいことだ」という感覚を、今こそ取り戻さなくてはならないのではないか、大事な忘れ物は、教えを聞かないと気づかないのだと思いました。
『聞法の生活』(東本願寺出版)より
東本願寺出版発行『真宗の生活』(2019年版③)より
『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2019年版)をそのまま記載しています。
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