東本願寺はこの地に創建以来、江戸時代に4度の火災で焼失し、そのたびに再建しました。
1864年7月19日、蛤御門の変により東本願寺は焼失します。1868年、明治維新の混乱の後、1879年にようやく両堂の再建に着手しました。その際に阿弥陀堂は少し大きく再建されることとなりましたが、大部分は1835年に建てられたものと同じ規模と設計を踏襲することとなりました。
この再建の棟梁は尾張国(現在の愛知県)出身の伊藤平左衛門、阿弥陀堂の再建は京都出身の木子棟斎でした。両者ともそれまでの両堂の再建に参加しており、当時の最高の技術を持っていました。また、他の職人の多くも、そうした経験を積んでいました。明治期に行われた東本願寺の再建は、江戸時代に活躍した宮大工たちの最後の表舞台でともいえます。
再建あたり、巨大な木材が北陸を皮切りに全国から寄贈され、全国の港に木材の陸揚げ場が作られました。そして港の木揚場から船などで大阪に運ばれ、さらに汽車で京都に運ばれました。そして、製材や各種準備のために、京都駅の北側、東本願寺の南側の広大な土地が作業場となり、専用の鉄道が敷かれました。
また、当時最先端であった西洋の技術も取り入れました。14.5mもある御影堂の大虹梁は、天井上から4本の鉄ボルトと井桁によって吊り上げられています。
このように、その当時の人々の持てる力を集結させて御影堂と阿弥陀堂の再建がなされたのです。