豊かさとは何か

著者:中川皓三郎(前帯広大谷短期大学学長)


我々は、たとえば車があるのかないのか、どんな車に乗っているのか、家が大きいのか小さいのか…、そういう自分の持ち物の豊富さを、豊かさの象徴のように感じているのです。ところが、シュマッハー(イギリスの経済学者)は、豊かさは、「止まれ、もう十分だ」と言えるところにあるのだというわけです。つまり、どれだけ人が羨ましがるほどたくさんの物を持っていても、まだ足りない、まだ欲しいと、こう思って生きている人は、実は貧しいのだということですね。たとえば、百万円のお金を持っていても、まだ足りない、もっともっとという人は、貧しいということです。逆に、たとえ一万円であっても、これで十分だと言える人は、非常に豊かだということです。だから、豊かさとは、量から質へというか、その人の生活姿勢の内容の問題であるということになります。どうでしょうか。そのことが、我々のところにスーッと入ってくるかどうかです。


我々自身が相対有限なものだということ、我々自身が絶対なものでないということ、そのことが持つ厳粛な意味ということを思います。私たちは、いろいろなことを思ったり、いろいろなことを言ったりしていますが、それは、ある限られた状況の中で意味を持つことであって、また、違うところへ行ったら、その意味するところが変わるということがあります。


たとえば、単純なことなのですが、私自身は髪の毛が薄いのですが、三番目の弟は髪が真っ黒でふさふさしているのです。だから髪の悩みもないかといえば、そうではなく、弟は逆に、髪の毛が真っ黒でふさふさしている者は、ガンという病気になりやすいと人に聞いて、心配しているのです。我々は、ある事柄について嫌だ、困ったことだと悩むのだけれども、そのことは、ある条件のもとでのみ言えることで、いつでもある困ったことではないということです。


背が高いとか低いとかということもそうでしょう。高い人は、背をかがめなければならない悩みもあるのです。だから、我々が相対有限であるということ、生まれたからには死ぬということ、それは非常に大事なことなのです。そのことが大事だということは、相対有限であるということの持っている意味を本当に知らないと、我々は、さまざまな尺度で振り回されてしまうのではないかと思うのです。


だから、お金があることによって苦しむということもあるし、ないことによって苦しむということもあるのです。あるからいい、ないから悪いと、単純には言えないのです。ここのところは、本当に大事にしなければならないことだと思います。私たちは、一つの尺度で考えてしまいますが、「凡夫」という言葉で教えられていることは、私たちは、どこまでも相対有限であって、不十分だということです。それは何か足らないということではなく、それですべてなのだということだと思います。一つの尺度では、絶対にはかれないのだということではないでしょうか。


豊かさとは、量の問題ではないのだということです。つまり、自分が自分であることに、これでよしと言えるかどうかという問題だということです。シュマッハーの言葉では、「止まれ、もう十分だ」と、こう言えるところに、実は、本当の豊かさがあるのだというわけです。

『ただ念仏せよ ―絶望を超える―』(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2019年版⑦)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2019年版)をそのまま記載しています。

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