「自由」に縛られていませんか?

著者:真城義麿(四国教区善照寺住職・真宗大谷学園専務理事)


「流行の服を自由に着られる」
「人間関係に煩わされないで自由に動ける」
「好きな時間に好きな番組を自由に見られる」
「ほしいものが自由に手に入る」…。


私たちは、このように自分の思い描いた通りに物事が進むと自由にできたと思い、自由に、つまり、思い通りにできることが幸せだと思っています。待つことも我慢することも、譲ったり妥協することもないのが、自由ですばらしいと思い、それを実現しようと努力します。


天候や気温に左右されない環境を用意し、嫌な人とは関係を持たず、個室の中に自分専用のテレビやパソコンなど、必要なさまざまなものを持ち込みます。制限のない時間・空間での生活を求め、人間や世間とも自分に都合のいい距離をとり、煩わしさのない関係で生きていくことを望んでいます。つまり、あらゆることを私事(プライベート)化して、そういう思い通りの状況を得るための金銭を求めてきました。


しかし、立ち止まって考えてみてください。そこに、爽やかな解放があるでしょうか。そんな現実の煩わしさからの自由が、本当に私たちを幸せにしてくれるのでしょうか。


それは、むしろ私たちの成長が妨げられている姿でしょう。不都合から逃げ回る人生は、私が私として生まれた意義を見出したり、関係を生きる中でのさまざまな出遇いの喜びを遠ざけたりすることになっていきます。


私が子どもの頃に、ある時「テレビを見るのは僕の自由だ」と言い張って、祖父から「お前はテレビに縛られていて、ちっとも自由じゃないではないか」と叱られたことが忘れられません。


私たちが自由だと思っている姿は、実は、自分の感情や欲望や思い込みなどに縛られている状態(「縛」という煩悩)ではないのでしょうか。望んで煩悩の虜になっている、その状態こそが煩悩なのでしょう。つまり、煩悩に振り回されているだけの人生になっているのではないでしょうか。


仏教の教えで「自由」とは、自らに由る、すなわち、外の環境と関係を持ちながら、それに振り回されない生き方、「自己の信念」が確立した状態をいいます。私たちがあらゆるいのちと共にいきいきと生きることから目を逸らさせるさまざまなものごとについて、正体を見抜かねばなりません。そのためには、煩悩をごまかさずに認め、真実を見抜いた方( 覚者)の智慧に聞いていかねばなりません。

『仏教のぶっ 仏教はじめの一歩』(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2019年版⑧)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2019年版)をそのまま記載しています。

東本願寺出版の書籍はこちらから

東本願寺225_50