人類の悲願
(教学研究所助手・三池大地)

高校生のとき、テレビから流れてくるシリア内戦の映像を観て衝撃を受けた。それまでにも、戦争などの恐ろしさを知る機会はあったが、テレビに映る人びとは血を流し、それでも銃弾は飛び交い、一面に煙が立ち込めている。それは過去の出来事ではなく、現に起きている状況だった。思わず・平和・とは何だろうか、と問わずにはおれなかった。
 
それから年月を経ても、ふとした折に考えることはあった。そして二〇二二年二月、ロシア・ウクライナ戦争の勃発によって、あらためて問いが湧出した。
 
答えを探し求めていると、一冊の本の背表紙が妙に輝いて見える。
 
“あなたは日本国をどんな国にしたいのか”
 
何気なく手に取ると『児玉暁洋選集7』とある。紙をめくっていくと、次の言葉が目に留まった。
 

「“平和”の実現は人類の“悲願”であり、その悲願を成就するものこそ“如来の誓願”である」と。                           (『児玉暁洋選集』第七巻五七頁、法藏館、二〇一九年)

 

これは著者の児玉氏が、広島の平和記念公園を訪れた際に“悲願”の鐘の前で感得した言葉だ。
 
私は、宗教が平和を掲げて恣意に利用するように、宗教という立場から平和を考えれば、平和の本義と離れていく気がしていた。だがここでは、宗教の立場から平和がたずねられている。
 
氏は平和について、戦争がないという状態だけではなく、「“一人ひとりが個性に輝きながら、しかも全体として調和している”ということこそが「平和」の意味である」(同六二頁)と積極的に規定する。
 
人類の歴史を振り返ると、このような平和とかけ離れたものではなかったか。各人の掲げる平和を実現するために、多くは戦争に加担し、人を殺し合ってきたと言えよう。
 
そうであれば「平和の実現」は、過ちを懴悔してきたものたちの悲痛の叫びである。いつの時代も、人は傷つけ争い合う。だから、人は祈らずにはいられない。
 
その人類を悲哀して、如来は四十八の誓願を立て浄土を建立した。そして自己のあり方に気づけと、私に問いかけてくる。
 
お前のなかに潜在する暴力のすがたを忘れてないか。お前は暴力によって他者を排除し、自らがつくり出す正義を護ろうとしてないか。お前が開戦を支持する民衆の一人であったかもしれないことを見失ってないか。お前たちは互いが自らを護るために衝突するのに、傷だらけの相手を放置してないか。
 
周りのことを案じているかのように装い、自分を棚に上げて平和を想い描く私。その実は、わが身を護ることが最優先であり、「平和の実現」は他人事であった。
 
「人類の悲願」を成就した「如来の誓願」は、私たちに自己を知れとびかけている。私は、「如来の誓願」から自己のあり方をたずね、宗教の立場から平和を考えていきたい。

 

(『真宗』2023年10月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

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