「信心」というは すなわち本願力回向の信心なり
法語の出典:『教行信証』信巻『真宗聖典』240頁
本文著者:加来雄之(大谷大学名誉教授・日豊教区淨邦寺衆徒)
「『他力の信』と『他力回向の信心』とは、まったく異なった事柄である」。
最初、このことを聞いた時、私は驚き、違和感を持ちました。その時まで、自分の心で他力を信じると思い込んでいたからです。「他力の信」とは、「私が他力を信じる」という立場です。ところが「他力回向の信心」とは、私が信じる心も他力のはたらきであるという立場です。この二つの区別が、私の人生にとってどれほど大きな意義をもつか、少しずつ思い知るようになります。
私たちは自分の心に、何を信じるか、何を信じないかを選ぶ能力があり、また決定する自由があるのだと思い込んでいます。しかし、そのような自分の心によってつくりあげた信は、自分の都合で変えることができ、また現実によって崩れるので、真の依り処にはなりません。自分の心は、病気になれば変わってしまい、死によって消えてしまいます。自分の心には、老病死によっても壊れない信心は成り立たないのです。
私たちの心はみな、虚構(虚妄分別)という病に罹っています。その心によってつくりあげた信も、虚構という病に感染しています。それゆえに、みずからに酔う独善的な信仰となり、善悪にとらわれた排他的な信条となります。自分の知識や心情や体験などにとらわれて、理解の浅い人を排除し、感動の無い人を差別し、意欲の弱い人を非難するのです。
源空聖人(法然上人)のもとで学んでおられた親鸞聖人は、すべての人に平等な信のあり方を言い当てることができないもどかしさの中で苦しんでいました。その時、源空聖人から驚くべき言葉を聞きます。
(『歎異抄』真宗聖典六三九頁・丸カッコ内は筆者)
源空(法然)が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房(親鸞)の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。
智慧も才覚も、男も女も、生まれも育ちも、どのような価値も資格も必要としない、誰にとってもただ一つの信心、私たちの心の事実でありながら、私たちに属しておらず、また私たちの心に生じるけれども、私たちの心から生まれたのではない信心、そのような信心は「如来よりたまわりたる」と表現されなければならない。
この「おおせ」を親鸞聖人は畢生の課題とされ、天親菩薩の『浄土論』によって、「如来より」とは「本願力」であり、「たまわりたる」とは「回向」のはたらきであると厳密に表現してくださったのです。
正直なところ、「本願力回向の信心」というむずかしい表現は、私の平穏な生活には縁遠いものでした。しかし心の持ち様などではどうすることもできないできごとがおこり、生きる根拠を揺り動かす不安に出遭い、これまで何を信じていたのか、信じるとはどういうことか、がわからなくなった時、この「『信心』というはすなわち本願力回向の信心なり」という確かめが持つ大切さを、思い知るようになりました。
真実に目覚めることは、真実からの呼びかけによるしかない。この単純簡明な道理に立つことが、私たちとってはきわめて困難なのです。「本願力回向」という表現は、この困難さに深く思いをいたし、涙した人からの贈り物です。
この法語は、私たちに、自分の心で他力を信じるという思いこみを省みなさい、「他力回向の信心」以外に信心はない、ただ如来の呼びかけを聞くものとなりなさい、と促しているのです。
東本願寺出版発行『今日のことば』(2019年版【10月】)より
『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2019年版)発行時のまま掲載しています。
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