関東御旧跡フィールドワーク報告(三)
(御手洗 隆明 教学研究所研究員)

 北陸地方から相馬地方(福島県)へ移住した真宗移民の足取りについて、関東旧跡寺院の調査と併せてフィールドワークを続けている。前回の調査では、那珂市阿彌陀寺にかつて恵信尼絵像が所蔵されていたこと(『真宗』五月号本欄)、水戸市善重寺が水戸藩の移民政策(入百姓)による北陸(越後)移民門徒の引受寺院であったことなどを知った(同六月号)。

 また調査のなかで、特に真宗移民についての情報を得ることができた。ここでは、本年七月二十六日に訪問した茨城県笠間市光照寺(東京教区茨城二組)と福島県いわき市浄願寺(東北教区浜組)について報告する。
 

笠間の光照寺〈笠間草庵〉
 

 光照寺(土肥真住職)は、常陸国に入った宗祖がこの地で旅装を解いたという由緒を伝え、門前の石碑には「かさ間草庵」と刻む。「関東お草鞋わらじ脱ぎの聖跡」として知られ、この地で『教行信証』を起草したと伝わる。

 現在の光照寺は「笠間山城西院」という山号が示すように、笠間城址(笠間市笠間)がある佐白山さしろさんの麓に位置する。現在の笠間市域を中世では「笠間郡」と称し、この地名がみえる最も古い史料が『親鸞伝絵』(一二九五年初稿本成立)であり、「聖人越後国より常陸国に越えて、笠間郡稲田郷という所に隠居したまう」(『真宗聖典』七三二頁)と記す。この「笠間郡」は、高田専修寺本『親鸞伝絵』「稲田興法段」の絵相に「笠間の御坊のありさまなり」と説明書きがあることからも、特定の場所というより広く笠間地方を意味すると考えられる。また、「かさまの念仏者のうたがいとわれたる事」(『真宗聖典』五九四頁)と題した宗祖の自筆消息が知られ、熱心な門弟集団が笠間郡に存在していたことがうかがえる。

 光照寺の寺伝は、開基を宗祖門弟「きょうよう」こと教名(教養、常陸笠間住実念)とする。教名は笠間の有力武士・庄司基員もとかずの一子とされ、同寺には教名による宗祖消息(『末燈鈔』第九通、『真宗聖典』六〇五頁)の写本がある。また教名の著書として『真宗授要篇』など宗祖語録を伝え、宗祖五百回忌では『親鸞聖人御法語』(一七六二年)を京都で開版し、奥書に「二十四輩常州笠間山光照寺」と記す。

 光照寺が所蔵する法宝物は、先の教名書写宗祖消息をはじめ、鎌倉期作という「木造阿弥陀如来立像」(立教開宗の阿弥陀如来)、聖人と恵信尼(ここでは玉日)を描いたという「女人往生証拠の御影」、「光明連座の御影」などが知られている。特に、この日拝見した「覚信尼御筆の消息」は、覚信尼から母・恵信尼に宛てた手紙とされ、関東旧跡寺院が伝える宗祖家族の伝承として興味深い。
 

光照寺と真宗移民
 

 北関東で相次いだ飢饉災害などによる人口欠落からの復興政策として、常陸国諸藩は寛政年間以降(一七八九~)、北陸真宗門徒を「入百姓」として移民導入する。これに協力した真宗寺院は、笠間藩領の稲田西念寺や宍戸藩領(現・笠間市)の唯信寺など、約四十が確認されている(小野寺淳「北陸農民の北関東移住」『歴史地理学紀要』二一、一九七九年)。

 今回、土肥住職のご教示により、光照寺も笠間藩に協力して真宗移民を受け入れ、現在も移民門徒の子孫がいることを知った。光照寺旧本堂内は、側壁に掲げられた祠堂札(永代経札)で荘厳されていたというから、福島県相双地方の真宗寺院と同じく、越中砺波地方の真宗寺院に通じる様式をもっていた。

 さらに、光照寺は現在の福島県いわき市にあった笠間藩の分領(飛び地)への門徒農民の入植と寺院建立に尽力したという。現地とは現在も交流があるということから、調査に協力をいただいた。

光照寺旧本堂内

笠間藩飛び地の浄願寺
 

 目的地となった浄願寺(三倉靈童住職)は、光照寺から北へ約一三〇キロの福島県いわき市三和みわ町にある。光照寺から車なら二時間程度だが、徒歩なら二日はかかる。阿武隈高地の山中にあるが、福島空港まで車で一時間程度のため、「相馬よりも京都の本山に行くほうが早い」という。

 寺伝によると天保十二(一八四一)年三月、移民門徒の帰依所として現在地に光照寺「出張所」(道場)が置かれ、安政五(一八五八)年七月、この出張所をあらため、光照寺二十六代住職・教量(光照寺伝では二十二代)を開基とする浄願寺を創立したと伝える。

 浄願寺のある三和町中三坂なかみさかは、幕府と諸藩がたびたび交代で領有した地域で、笠間藩はこの地を三度領有している。浄願寺が創立された天保十二年は「天保の大飢饉」の直後であり、教量が出張所を置いたのは廃寺となっていた浄土宗寺院跡であったというから、北関東や相馬と同様に、領内の荒廃と人口減少が深刻であったと思われる。

浄願寺本堂内

浄願寺と真宗移民
 

 光照寺は、稲田西念寺などと同じく、北陸真宗移民を受け入れたことで笠間藩より信頼を得たと考えられ、教量は藩の依頼によって門徒から希望者を集め、ともに中三坂に入植したという。教量は三年の間この地にとどまり、水田開発の先頭に立ち、移民門徒への教化に従事した後、笠間に戻った。

 代わって教量の父・快楽庵教房と教量の娘・あやが役割を引き継いだ。その頃、本山からこの地に巡回した使僧・霊賢(越中氷見の出という)はあやを妻とし、嘉永元(一八四八)年三月に本堂を建立し、浄願寺の初代住職となった。この間、笠間より入植した移民門徒は四十二戸という。相馬真宗門徒と同じく、家族ごと移り住んだのであろう。

 その後も光照寺からの移民門徒とともに復興に貢献した浄願寺を、笠間藩主牧野氏は永代五両二人扶持として遇した。浄願寺は現在も「牧野越中守殿御位牌」と「牧野家先祖代々の御位牌」を寺宝として伝える。また、本堂内の様式からも、浄願寺が北陸真宗ゆかりの寺院であることがうかがえた。

 訪問時には、三倉住職より寺伝と真宗移民についてのお話を聞き、同寺の記録文書を拝見した。また同席されていた門徒総代より、戦後も農作業を通して越中富山との交流が続いていたことを知った。浄願寺はいわき市山間部にあるため、東日本大震災と原発災害の影響を心配したが、深刻な被害はなく、農業も続いていたという。相双ともいわきとも違う、真宗寺院の今がここにもあった。

 今回の調査では浄願寺から北、浜通り北部相双地方への真宗移民の足取りはつかめなかったが、笠間藩本領から奥州の分領への門徒農民の移動という、真宗移民の展開を知ることができた。光照寺が藩政に協力して真宗移民を受け入れ、同時に他国へ送り出す役割を担ったことが、真宗不縁の地域での浄願寺創立につながった。幕藩体制下で、門徒農民の移動により真宗の教線が延びていく様相を、今回もうかがうことができた。

(教学研究所研究員・御手洗隆明)

([教研だより(208)]『真宗』2023年11月号より)※役職等は発行時のまま掲載しています