「教化伝道研修」第四期(二〇二二年五月~二〇二三年八月)は、「真宗同朋会運動の願いに学ぶ」という全体テーマのもと学びを終え、去る二〇二三年八月二十九日からの三日間に亘り、公開研修報告会が開催された。報告会前には、研修生全員から修了レポートが提出された。以下、二名の修了レポート要旨を掲載する。


 私が出逢った「本願のこころ」

   望月もちづき 晃耀こうよう

 (東北教区秋田県南組 寳林寺)
 

 教化伝道と聞かれてどういうことなのか、正確に答えることができません。私は事前レポートにそう書いていました。何に依って生きているのか、何ゆえそれに依るのか、分かっていない私、分からなくても知っているふりをして他人に合わせようとする私がそこにいました。私は「そんなことも分からないのか」という言葉に悩まされていました。教えていただいてもそのまま放置していました。第五回「真宗における差別の学び」の研修で「是旃陀羅」問題に触れました。知らないことでしたと謝罪をしても、傷つけてしまった相手は許してくれるでしょうか。そんなことを気にしていました。ですが、「まず、知ることからなのだ」と宮下晴輝教学研究所長から教えられました。知らなければ何もできないのは当たり前のことだと気づかされました。よく知りもしないのに解決策や対策などを考えてもできるわけがありません。知らないまま相手を傷つけてしまうこともあります。

 分かる人と私の差が広がっていると感じた時に劣等感を覚えます。私は私自身を誰よりも劣っている存在であると感じています。修了レポート相談会の時、委嘱スタッフの小松肇さん(大阪教区泉勝寺)の講義で、「他人と比べられるのが嫌だ」というお話がありました。自分よりできない人を見つけて、自分の方が知っているからと、得意気に教えていたことに対して、中川皓三郎先生が言われた「自分が病人であることに気づいているのか」という言葉に、私もハッとさせられました。どこかで自分より劣っている人を見つけて安心しようとする私がいたのではないでしょうか。けれどもすぐに私自身の方が劣っているという考え方になります。私はよく分かってない人ですからと、何もできない人ですと、他人に劣等生アピールをして、人を敬っているつもりでいました。差別(不当な区別)なんてするものかと自信がありました。

 同朋大学教授の鶴見晃先生は「「是旃陀羅」問題と自己」という講題のもと、それぞれの問題が遠いから取り組まないのではなく、自分にとって重要なことは他の人にも重要であるのかというところから、共有していくことが大事だと語られました。共有するところから私たちの対話が始まる、話していかなければならないとも教えられました。私は「聞く」ということを大事にしてきたつもりです。しかし、聞くだけでは信は得られないですし、話すことで成り立っていくと考えています。言葉というものは、知らない間に人を傷つけてしまうものです。最近では誹謗中傷を頻繁に目にします。平気で人を傷つけようとする行為です。そんな言葉は、人を死に追いやってしまう凶器でもあります。凶器はむやみに振り回したくはありません。しかし、亀谷亨研修長(北海道教区即信寺住職)から「人を育てる言葉もあります」と聞いて、人と出会い、人を育てる言葉に、もっと出逢い知り得たいと考えるようになりました。

 そして、この研修において、何度も繰り返し教えられた亀谷研修長の「本願のこころ」に、研修生だけでなく全体で出逢わせてもらったのではないでしょうか。「自分も他人も含めて、どんな人も軽く見ない。そのいのちの重さにおいて向き合ってほしい。そしていかなる存在も無条件に大切にできる人となってほしい」と。自分のことは関係ないと考えているため、「自分も含めて」が理解できませんでした。しかし、第五回の聖教の学びの最後に紹介されていた楠信生先生の言葉、「ダメな人間は一人もいません。ダメな考えがあるだけです」という言葉に深く頷かされました。ダメかそうでないかは人間存在の問題ではなく、その考え方であり、生き方の問題であると紹介されていました。私は自分自身のことを善い人とは思っていません。自分自身のことをダメな人間、または悪人と決めつけていました。世間では偽善者という言葉もあり、誰かにとってはありがたい優しい行動をしても、私の行為は偽善だと自身に言い聞かせて優越感を抑えていました。幼少の頃よりやりたいことを制限され、親や親戚、ご門徒の方々の期待に応えるような生活を強いられていました。応えられなければ親を悲しませてしまう、そんな親孝行をしていました。人より劣っている、ダメな人間と思って、私は今日まで生きてきました。

 私は自身を軽く見ていたのではないでしょうか。自分も他人も含めてどんな人も軽く見ないとありますが、私は自分自身を見下し、直接ではなくても間接的に他人を差別していたのではないかと気づかされました。自分自身を人として見ていなかったのではないでしょうか。自分自身を含め、人を人として見ていなかったのではないかとも感じました。

 真宗、あるいはこの宗門における差別の学びというものは、強い痛みを覚え、自己を問い直さなければならない学びであります。また、一人ひとりが人を人として見ているのかという確認をする学びでもあると感じます。存在に対する尊敬をもてるか、共に宿業の身を抱えながら生活をしているはずの私は、命の重さに向き合えているのでしょうか。私は自分自身を見下していたことを、自分自身に謝ることができるのでしょうか。そして、私はそれを許すことができるのでしょうか。自分を許すことは、簡単ではないように感じます。私は私を許せないのかもしれません。班担の三池大地さん(教学研究所助手)からの第五回レポートのコメントに、「私たちは、差別を生み出していく社会に生きています。その社会は、先輩や私たちが作り上げ、多数の人の意見が反映されたものです。その意見が反映された社会の恩恵を受けながら、私たちは生活しています。しかし、場合によっては少数にもなります。それは折々に迫ってくる生きづらさのようなものだと思います」と記されていました。これからも社会によって差別は生み出されて続いていくものだと感じます。その度に同じあやまちを繰り返してしまうと考えると、自分を簡単に許してしまって良いのかと感じてしまいます。三池さんは続けて、「その生きづらさは、実はとても大事な感覚で、社会という空気が生み出したものへの反発のようなものかもしれません。そのような現実に自らも、他者も身を置いて生きている、という感覚が差別問題を学んでいくときの視座になると感じました」。このコメントがなければ私のこれからの人生は暗いままだったのかもしれません。同じあやまちを繰り返してしまうこともありますし、その度に自分自身と向き合えるではありませんか。ダメなことは一切ないのではないでしょうか。その生きづらさはとても大事な感覚という言葉には、どこか温かみがあるように感じました。

 まだ、私の考えは変ではないかという不安はあります。研修を通して、言葉は選びなさいと言われ続けているように聞こえました。丁寧に法話の準備をする上で、人と共有していくためにも対話は必要です。仏教は対話の宗教であるとも言われるように、一方的に話すことではありません。私は聞くということを大事にしてきたつもりではいたものの、実際にはどうであったのでしょうか。これからは、その中で誰かを傷つけないように、知りませんでしたで済まさないためにも、言葉というものを選ばなければならないと強く感じました。そのためにも、たくさんの人と出逢い、たくさんの言葉にも出逢っていきたいと考えています。自分も他人も含めて、どんな人も軽く見ず、さらに自分と向き合うことでいのちの重さに向き合う、そしてそれがいかなる存在も無条件に大切にできる人となることを信じて、これからも生活していきたいと考えています。

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 自分自身について

   たちばな 宗真かずま

 (新潟教区第二十組 顯了寺)
 

 「教学の学び」には以前から苦手意識があり、研修の初めの頃は言葉の意味や内容が分からないことで直ぐに学びの手を止めてしまっていた。しかし第三回「現代と宗教」の研修での班別座談の時に、班担から「わたし事として問題を見ているのか」と指摘を受けて、自分の中で少しずつではあるが学びへの変化があった。そして、改めてこの研修について考えてみると、どの回の講義も自身の在り方や物事に対する姿勢について問いかけていたのではないかと今は感じている。

 自坊に帰って少し経つが、日々の法務では以前に大阪の寺院で勤めていた経験が自らの土台になっている。その時代に求められていたのは、声明の上手さや教学の知識ではなく、「寺と門徒を繫ぎ止める」ということだった。身なりを整え、きちんとお勤めをし、難しい話や込み入った話よりも世間話をしながら相手と接していく。門徒さんと仲良くなることで寺と門徒との距離感を近くしようとしていたのである。当時はこれが自分の仕事と考えていたし、これが「現場の僧侶」の在り方のように思っていた。宗教離れ・寺離れが顕著な都会での仕事のやり方のように感じていたが、今の自坊においても「寺と門徒を繫ぎ止める」仕事は自分の中で変わっていなかった。

 第一回「真宗における教化と伝道」の基調講義にて楠信生先生が「近頃の坊さんは仏教の話をしない。聞き手が分からないと決めつけ、分かりやすい言葉を話している」と仰って、こういった姿勢は相手を甘く見て見下しているのだと話されていた。この言葉を聞いた時、私はこれまでの自分の仕事がたしなめられたように感じた。

 人間関係において、他者と繫がるにあたっては共感するということは大切で、そのためにも分かりやすさは重要なことだ。これまでの自分は普段の会話や法事での法話においても相手の理解しやすい(想像しやすい)言葉で教えや自身の受け止めを話し、少しでも伝わるようにと心掛けてきた。しかし、このような自分なりの「寺と門徒を繫ぎ止める」仕事は、門徒と親しくなっているようで、その反面に寺(僧侶)という立場を利用して相手を都合のいい存在へと貶めていただけなのかもしれない。

 これまでに自身の法務、ひいては僧侶としての在り方が否定されることはなかったので、この研修は非常に衝撃的なものだった。そして、自身が否定され、何かがボロボロと崩れるように感じてしまうほど、自分が法務にプライドをもっていたということにも驚いたのを覚えている。

 自らの拙さや無自覚の傲慢さを思い知らされ、行き詰まりながらも研修を受けていたのだが、そんな時に冒頭の「わたし事として見ているのか」という指摘を受けた。

 第三回ではカルトの問題が取り上げられ、講義後の座談の話題としてもカルト教団と真宗教団の違いなどについて話し合っていた。その時はそれぞれを対比して「カルトは悪いもの、真宗はそういったものとは違う」という視点での話に終始していたが、班担からの指摘を受けて「そもそも人間自体に自らの意思を他者に押し付けるような攻撃性があるのではないか」「たまたま今違うだけで自分自身や教団にもカルトになり得る可能性・性質があるのではないか」という話に変わっていった。わたし事として見ることによって、自分たちの中でそれまでの物の見方や考え方に変化が生じた瞬間だったように感じている。

 この回の講師であった瓜生崇氏はカルトと我々との線引きについて「教えに対する力のかけ具合や方向性でグラデーションのように変わってしまうものである」と話されていた。置かれている環境やその時の状態によって善くも悪くもなってしまうということだが、自分自身が悪いものになるかもしれないと考えている人は少ないのではないだろうか。

 講義の中で「正しさへの依存」についても触れられていたが、この「正しい」ということもその人の力のかけ具合や方向性によっていびつなものに変質してしまう。「人は「正しさ」を求めてしまう」「間違いない正しさを求め、分かりやすい悪を叩く」と話されていたように、人間の在り方は善悪や損得勘定のような二極的視点に立っているのではないだろうか。「正しさ」は大切であると思うが、その「正しさ」の基準とも言える世間の倫理観や時代における判断は絶対的普遍のものではなく、一人ひとりの価値観によっても「正しい」には差異が生じてしまう。

 自分の近くにも「正しさ」に憑りつかれたような人がいる。自分は世間一般的なことを言っている、常識に則って物事をなしている、自分のすることに間違いはないといったように、自分の全てが正しいと思い込んでいる。付き合いが長ければ聞き流して終わりかもしれないが、この「正しさ」が言葉の暴力となり、他者を傷つける場面も多大にあった。「自分自身が正しい」という執着が残虐で攻撃的な人間を作り出しているのだろう。これまでの自分であれば、この人物と対峙した時には「こういう人間には絶対にならない」と強く心に留め相手にしなかった。しかし、この相手に反発している自分自身にも、自らを「正しい」と思って疑わない心が根付いていたのだと講義を通じて気づかされた。相手を拒否(否定)するということは、自分自身の在り方を肯定し、問題自体を顧みないということなのではないだろうか。この気づきこそが「わたし事として問題を見る」ということではないかと感じている。

 改めて自身の物事の考え方について思い返すと、幼少期に言われた「他所はよそ、家はうち」という考え方が染みついているように感じる。「私はわたし。他と比べる必要はない」という願いからの言葉だと思うが、成長するにあたって「自分が大切であるから、他は気に留めずとも好い」といったように本質とは違ったものに変わってきているように感じる。

 人と話す機会でも、相手の話を聞いて「あなたはそう考えているのか」と頷きながらも「私はこう思うけれど」と自身の考えを貫き続け、結果として相手の思いや考えに耳を傾けていなかったのではないだろうか。こうした態度であれば、大切な教えや人との出遇いに気づけるはずはない。自分の経験や思いを信じ固執する無自覚の自尊心が、何もかもを阻害していたのだと感じた。自らの足元にある価値観を、研修を通じ出遇えた人たちから教えてもらえたように思う。

 第五回「真宗における差別の学び」の課題別講義で鶴見晃先生は「私を問う人がいるからこそ、他にそうではない在り方が生まれる」「私の在り方を他者とともに考えていく」と話されていた。「自分は自分」として離れたところから問題を見ている傍観者になっていては、真に自分事として向き合うことはできない。

 自分らしく生きているつもりで、その自分自身の心に大切な出遇いを阻まれている。このことに気づくには何かきっかけがなければ不可能ではないだろうか。亀谷亨研修長の講義では「慙愧ざんぎあるところに人との出遇いが生じる」「本願をいただくことで「私の姿」が明らかになる。私の愚かさが見えてくる」「本願の心に背く自身の目覚めにこそ「人間」がある」と話されており、人間の本来性(人の事実)を知り、自らの課題として向き合うことが「私として生きる」ということに繫がると考えさせられた。

 研修は終わってしまったが、我が身の在り方を少しでも気づかされ、これからを生きるにあたっての課題を見つめる芽吹きのようになってくれたことにとても感謝している。
 

([教研だより(209)]『真宗』2023年12月号より)