他力の信心うるひとを

著者:マイケル コンウェイ(大谷大学文学部准教授)


他力の信心うるひとを
 うやまいおおきによろこべば
 すなわちわが親友ぞと
 教主世尊はほめたまう

 (「正像末和讃」真宗聖典五〇五頁)

教えを開顕した、世に尊ばれる者は
他力によって洞察を得た人を敬い、
大きく慶ぶ時、その人を
自分の親友として讃える。
 


この和讃は、『仏説無量寿経』(以下、『大経』)の下巻にある偈文の言葉に準えて作られていますが、親鸞はその文章と微妙に違う言葉を使うことによって、私たちが仏教の教えにふれるために、「信心の人」に出遇う大切さを明示しています。


『大経』の原文は次の通りです。


法を聞きて能く忘れず、見て敬い得て大きに慶べば、すなわち我が善き親友なり。

(真宗聖典五〇~五一頁)


親鸞はこの文章を重んじて、主著の『教行信証』では三度ほど言及しています。


『大経』の原文と上記の和讃を読み比べてみますと、前半が大きく異なっていることが分かります。経典では、教えを「聞く」こと、それを「忘れない」こと、そして「見る」ことが言及されていますが、親鸞の和讃では、それが省かれて、信心を得た人が敬いの対象として述べられています。


私たちが教えを聞くためには、必ずその教えを説く人に出遇わなければなりません。『大経』の文章では、そのことは明記されていませんが、「見る」べきと勧めている対象は、教えを説く人です。親鸞はそのように『大経』の文章を理解し、和讃の方では私たちが敬う対象を信心を得た人として明示しています。


私たちは教えを学ぶ時に、どうしても自分の思いでその教えを受け取ることになります。本などを読んで、仏教の様々な概念を理解し、真宗の教義体系について様々な知識を得ることができますが、その場合、分かっている自分、知っている自分が尊いという勘違いをして、知らない人を見下し、耳を傾けようとしないようになってしまいます。


一方、親鸞は本当の意味で念仏の教えに生きている人を先生として仰ぐことができる人こそが、釈尊によって善き友としてほめられると述べています。念仏は、本当にある、真実の世界に立ち返って生きるように勧めていますが、それは私たちの思いを超えていますので、いくら自分の思いを駆使してもそれにふれることができません。しかし、その世界にふれて生きている人に出遇い、同じようになりたいと敬うことがそこに立ち返る第一歩となります。その人を釈尊は同じ道を歩む真の法友として讃えるでしょう。


月刊『同朋』2018年5月号(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2019年版⑪)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2019年版)をそのまま記載しています。

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