多磨全生園真宗報恩会の「今」の姿から見えること

東京教区宗泉寺 旦保 立子

  

  知らず知らず歩いて来た

  細く長いこの道

  振り返れば遥か遠く

  故郷が見える

  でこぼこ道や曲がりくねった道

  地図さえないそれもまた人生

  ああ川の流れのように

  ゆるやかにいくつも時代は過ぎて

  ああ川の流れのように

  とめどなく空が黄昏に染まるだけ

 この歌詞は、言わずもがな、美空ひばりが歌う楽曲「川の流れのように」です。

 国立療養所多磨全生園内の真宗報恩会では、新年会や旅行となると、カラオケ大会が開かれます。この歌はハリのある声の入所者のFKさんの持ち歌です。しかし、いつのころからかこの歌のサビ部分にオリジナルのフリが付きました。そして、宴たけなわの締めくくりになると、参加者全員が舞台に上がり、「ああ川の流れのように」のところに来ると、そりゃあ、心に気がかりなく、晴れ晴れとした気持ちで、フリ付きで腹から歌ったものです。「真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会」では多磨全生園報恩会の十八番として、このフリ付き「川の流れのように」は全国に知れわたることとなりました。

  

一、真宗報恩会での思い出

 約30年前、真宗報恩会のある例会で何を話そうかと大上段で構え、緊張感マックスの私に、「旦保さん、親友やで」と声をかけてくださった会長の言葉が、私にとってハンセン病問題における課題を知っていく大切な一つの出会いでした。

 しかし、私がハンセン病問題に出会う前から、すでに、真宗報恩会で交流を続けられていた方々がおられました。ハワイに行った時に、「身体の不自由な者はどこに行っても最優先だった」と満面の笑みで語られていた入所者の方。また差別・偏見により、京都に行った時には宿が見つからず、相当、旅館側ともみ合ったと同行したスタッフの弁。これらは、1996年「らい予防法」廃止前の出来事です。

 私が園とご縁をいただいてからも、年に一回のレクレーションの旅は続きました。熱海の冬の花火、横浜中華街闊歩、三崎でのおいしい魚料理、福島、箱根、長野、池袋サンシャイン等々、園のバスを利用しての旅でした。園に待つ友にお土産をたくさん買うのにお付き合いをし、財布を預けられ支払いをする。町中や観光地を腕を組み、肩を貸し歩きました。にぎやかに家族参加の時もありました。また、旅の行き先が故郷だということから、親類の方が会いに来てくださり、思いがけず皆ともに感動の渦に包まれました。

 年の初めには新年会が開かれ、スタッフの当番制でそれぞれ個性豊かな会となりました。若いスタッフはほとんどお連れ合い・子どもらとの参加で、園内の会場・福祉会館は黄色い声でいっぱいになりました。ある年の新年会、私の隣に座った達筆のTさんがボソッと言われました。「旦保さん、ほんとは、俺は子どもが来るのがイヤなんだ。みんなが喜んでいるわけではないよ」と。子どもをもつことが許されなかった経験から、無邪気に遊びまわる子らを目にして、過去の辛い思いがよぎり、この言葉になったのだと思います。一年一年、子どもたちは大きくなり、新年会の盛り上げに一役を担うようになりました。その大きくなった子どもたちの姿を見ることなくTさんは浄土に還られました。

 ほかにも、真宗報恩会の聞法の場である「和光堂」(真宗会館)では、4月の花まつり、10月ごろの報恩講、毎月の定例会が開かれていました。

 花まつりは和光堂周りの植栽をしてくださっているHさんが、園内の花を集めてきて花御堂を飾り付けてくださっていました。その集められた花々のほとんどは、園に住まいする方々が植樹された故郷の花木であることを教えてもらいました。そのほとんどは入所者がお金を出し合い、故郷を思い、未来に希望を託したものであったと。

  

二、そこにあった人々の姿を忘れない

 これらの旅のレクレーションも、新年会も、花まつりも真宗報恩会のメンバーの減少(現在5名)と高齢で開催がかなわなくなりました。結果、その和光堂の場が閉場し、真宗報恩会も解散せざるをえなくなりました。

 また、今まで存在し、よく利用していた園内の福祉会館のあった場所は更地となり、土色と雑草に変わっていました。かつて、この場所は、各教区からの交流会で、芋煮鍋やジンギスカンのにおいが漂い、台所ではせっせと野菜を切る人がいたり、笑い声が響いていました。舞台もあり、カラオケの機材もあって、「川の流れのように」も、ここで歌われてきました。

 園の方々のそれぞれの生活の場であった長屋式の家屋もまた、取り壊されつつあります。食事を入れる配食用の箱が入り口のすぐ横にしつらえてあり、裏の縁側には小さな庭に丹精込めた花々が咲いていたのを思い出します。Kさんのところは入り口にキウイの木があり、お邪魔する時の目印でした。

 現在、国立ハンセン病資料館になっている場所は、17年前まで、園に住まいする人たちの農園でした。そこで育てられ、収穫されたナスやキュウリ、トマト、白菜、大根、ねぎたちが園を訪問された人たちとのつながりになっていました。そして、その資料館は、かつて入所者によって園内の一室で開かれた、「たとえかすかなひとりごとさえも可能なかぎり細大漏らさず聞き取り集めて後世に残そうとした人たちの拠点とし()」のハンセン病図書館が礎であることも忘れてはならないと思います。

 今回、紹介した園内の施設での行事は、入所者の歩みの一つでした。しかし、その根っこに、その笑いの裏に苦渋に満ちた日々の生活があるのです。単なる歴史の流れではなく、そこには悲しみも傷みも悩みも苦労も生活という具体的なものとして、人々の姿があることを私たちは想像せねばならないのです。

 そして、その生活は国策として縛られたものでした。その国策を容認してきたのも、ハンセン病国賠訴訟で裁かれたのも私であったのです。そうであるからこそ、国の言う「最後の一人まで見ていく」とは、私にとっての「最後の一人まで」をどう歩みとして表現していくのかが、問われていくと思います。

  

※山下道輔著『ハンセン病図書館 歴史遺産を後世に』(社会評論社、2011年)

JASRAC 出 2400560-401

  

真宗大谷派宗務所発行『真宗』2024年3月号より