遇い難くして今遇うことを得たり
               (「総序」、『真宗聖典 第二版』一六〇頁)
(教学研究所所員・名和達宣)

古来、真宗教団において宗祖親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類』(以下『教行信証』)は、「一宗」の根本聖典、「立教開宗」の書として仰がれてきた。しかし、特に江戸期までは、この書を読むことができたのは、教団内のごく限られた学僧にとどまっていた。また、その時に言われる「宗」も、宗派(セクト)意識のきわめて強いものであった。
 
『教行信証』を公開していこう、という気運が高まってきたのは、近代以降である。
 
その先駆けは、一九一一年の宗祖六百五十回御遠忌を機に、無我山房から出版された浩々洞編『真宗聖典』(『教行信証』全文が収録)や、一般向けの解説書である山辺習学・赤沼智善著『教行信証講義』であった。
 
それからの百年、宗祖七百五十回御遠忌(二〇一一年)に至る歩みの中で、特に熱意が注がれてきたのは、従来の聖典で完全には依拠されていなかった、宗祖直筆の坂東本『教行信証』(以下「坂東本」)の公開である。御遠忌記念として、カラー影印本や漢文の翻刻本などが刊行されてきたが、二〇二三年の立教開宗八百年に際し、ついに「坂東本」の書き下し全文(全ルビ付き)を収録した『宗祖親鸞聖人著作集 一』が刊行された。そしてこの春、その書き下しも収録の新たな『真宗聖典 第二版』(東本願寺出版)が出版されるに至った。
 
つまり、誰もが求めれば、宗祖の直筆(訓点)に依拠して『教行信証』を読むことのできる時代が、今、ようやく開かれつつあるのだ。
 
ここにおいて、先人たちの御苦労の歴史に想いをいたすと、『教行信証』を読むことができるのは、決して当たり前ではないということに気づかされる。では、私たちはこれまで本当に、宗祖の意に即して『教行信証』を読んできたのだろうか。
 
同書の「総序」に、次のような言葉がある。
 

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇い難くして今遇うことを得たり

 

三国七高僧の伝燈を通して本願念仏の教説に遇い得た慶びが、感動的に讃嘆されている。
 
ただし、この言葉に先立ち宗祖は、「ああ、弘誓の強縁、多生にももうあがたく、真実の浄信、億劫にもがたし」とも述べておられる。
 
ここで「かたし」という語に当てられている「叵」の字は、ただ難しいということではなく、不可能の意味を表す。真実の教えに遇い、信を獲ることは、末法濁世を生きる凡夫には、本来、不可能であるというのだ。
 
この二つの「かたし」について安田理深師は、不可能(叵)であるはずのことが可能になっているところから、「難」は「かたじけなさ」を表す、と領解された(『安田理深選集』第一五巻下、三三一頁)。遇い得た慶びが讃嘆される背景には、末法濁世と自己の罪業に対する深い悲しみがある、ということだろう。
 
私たちは、かたじけなくも今、『教行信証』の言葉を読むことができる。そのいとなみを通して、一人の身上において「宗」──人間として生きる根拠──を尋ねていこう。

 

(『真宗』2024年4月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

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