本当の供養
(松下 俊英 教学研究所研究員)
南方スリランカ等に伝わった律蔵に、釈尊が解脱を得られてからの物語が綴られている(パーリ律「大品」)。その中に、解脱の楽を味わって十数日後の釈尊を、タプッサとバッリカという二人の商人が供養したという短い挿話がある。
旅路にあった二人が釈尊の近くを通った時、神々から二人の幸せのために釈尊を敬うよう伝えられた。そこで、二人の商人は釈尊に食べ物をお供えしようとしたが、釈尊には受け取る食器がなかった。それを知った四天王は、それぞれ食器を差し出して二人の商人が供養できるようにした。そうして二人は仏と法に帰依し(二帰依)、初めての信者となったという。解脱された釈尊が教え(法)を説かれる前のことである。
この物語は、他の律蔵をはじめ、ジャータカ物語冒頭でも内容を増減させながら語り継がれている。「大品」では、教えが説かれる前にもかかわらず、法にも帰依するのだが、他の律蔵(「四分律」「五分律」)では、二人に教えを説くストーリーとなっており、「二帰依」の根拠を創出したように思える。そのほか四天王の食器について多く語るものや、商人が釈尊から髪を授かり、故郷に持ち帰って、建立した仏塔(ストゥーパ)に納めたという話まである。創造ゆたかな物語たちである。
さらに、二人は有名人だったようだ。玄奘三蔵の『大唐西域記』には、二人の故郷が縛喝国(アフガニスタン北部のバルフ州)であることや、建立した仏塔についての記述が残されている。
様々に描かれたこのような物語に通底するもの、それは「供養」ということである。供養とは本来、「尊敬する」という意味であり、具体的には尊敬するものに供物を捧げることである。だから尊敬せずして供物を捧げることはあり得ない。仏教以前には神々であったが、仏教に至って、釈尊やその僧伽を敬い供養するようになった。対象が変わったからといって、幸せを祈ることに変わりはなかったであろう。二人の商人も同様に、幸せを祈って供養している。
では「幸せ」とはなにか。根本説一切有部の律蔵(「破僧事」)には、幸せのための供養は必ず涅槃の楽を証すると釈尊自らお説きになったと記されている。そうであれば、本当に仰ぎ見るものに出会うということ、そして、その祈る幸せとは「涅槃の楽」だということが、仏教が伝えてきた供養の内実ということになる。
各々の幸せをおろそかにしてはならない。というのも、その幸せを祈る心の根底に、本当の願いがあるということに気づくことができるからである。それは、仰ぎ見るものとの出会いによってもたらされるにちがいない。
(『真宗』2024年4月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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