関東御旧跡フィールドワーク報告(四)
(御手洗 隆明 教学研究所研究員)
江戸時代の後半、飢饉災害に遭った北関東・東北地方に、多くの真宗門徒農民が、主に北陸地方より入植した(真宗移民)。筆者は、北陸真宗移民と関東旧跡寺院について、二〇二三年二月より調査を続けている。はじめに、これまでの概略を記す。
水戸・笠間領内の真宗移民
茨城県那珂市阿彌陀寺は、かつて「恵信尼像」を所蔵し、この絵像に類似した恵信尼像が水戸市善重寺にあることから、現在知られている恵信尼のイメージは関東由来である可能性が高まった(本欄『真宗』二〇二三年五月号)。善重寺は、京都由来と考えられる「聖徳太子立像(重文)」を所蔵し、水戸藩の新田開発事業と移民政策(入り百姓)に協力した移民引受寺院であり、越後国から入植した移民門徒子孫の集落は今も健在である(同六月号)。
笠間市光照寺は、宗祖の草庵跡として知られ、伝「覚信尼御筆の消息」等を所蔵する。光照寺も笠間藩の移民政策に協力した移民引受寺院であり、その移民門徒を他地域へ送り出す役割も担っていた。
福島県いわき市の三坂浄願寺は、この光照寺が移民門徒を率いて笠間藩の分領である現在地に入植し、水田開発に従事するなかで建立されたという(同十一月号)。ここまでの調査で、真宗門徒の移動により、教線拡大と新たな寺院建立につながる様相を確認することができた。
鹿田の稱念寺
今回報告する稱念寺(東京教区茨城二組、延方量昭住職)も真宗移民ゆかりの寺院であり、現在は鉾田市鹿田にある。寺伝によると、同寺は宗祖在世時に孫弟子・称念を開基として行方郡延方(現・潮来市)に建立された。同地は鹿島神宮の勢力圏であり、宗祖の有力門弟集団・鹿島門徒の活動地域でもあった。称念は為尊という鹿島神宮の神官であったが、宗祖の門弟・性信を師として真宗に帰依したと伝わる(『茨城県史 市町村編三』は寛政年間(十八世紀末)創立とする)。本堂内には宗祖木像と小さな恵信尼木像が置かれている。
その後、稱念寺は寛正元年(一四六〇)に宍戸唯信寺(笠間市)に属したという。唯信寺は宗祖の門弟・唯信による開基と、真宗移民による復興を由緒とする旧跡寺院である。稱念寺の現在地への移転は、江戸末期の住職・秀明(越中砺波出身)の時代とされ、笠間の移民門徒、あるいは新たな北陸移民と共に入植したものと考えられる。同寺が移転再興を果たしたのは明治十三年(一八八〇)であった。
稱念寺の真宗移民は江戸後期から明治初期にかけてのものであった。移民門徒たちが家族と真宗信仰を守りながら開拓を進め、やがて真宗寺院が建立されていく様相がここにもうかがえた。
相馬真宗移民の足取りを追い、関東旧跡寺院を巡る調査によって、農業技術を活かし、家族と共に真宗信仰を相続できる環境があれば、たとえ災害に荒廃した土地であっても入植し、復興の力となった真宗門徒の姿を見ることができた。門徒が根付いた土地には、移民寺であることを由緒とする寺院がある。あるいは移民門徒を見守り続ける寺院がある。このような真宗寺院・門徒の姿は各地にあるのではないか。災害復興の手がかりは浄土真宗の歴史のなかにある。
(教学研究所研究員・御手洗隆明)
([教研だより(215)]『真宗』2024年6月号より)※役職等は発行時のまま掲載しています