五劫思惟――はからいを破る時間
(武田 未来雄 教学研究所所員)

 『歎異抄』には「念仏には無義をもって義とす」(聖典第二版七七一頁〔初版630〕)との言葉が述べられている。この「義」については、親鸞聖人のお手紙に「行者のおのおののはからう事を義とは申すなり」(聖典第二版七二〇頁〔初版589〕)とあり、「はからう」ことであると言われる。
 
 私たちは常に「はからい」をして生きており、「無義をもって義とす」との言葉は、「はからい」を超えていくということが、念仏申す者にとって重要な課題であることを表しているのではないだろうか。
 
 「はからい」は、例えば猛暑がいつまでも続き、秋がなかなか訪れないと憤ったり嘆いたりするところにも現れる、私の身の事実なのである。秋という時があるのではなく、季候が穏やかになり、木々が紅葉し始める、そうした状況になってくることこそが「秋」である。しかし、私たちは、それまでの経験などをもとに、時期がくれば秋が来るものだと思い込んでしまう。刻々と変化する現在の事象をありのままに見ることもなく、自分の思いはからいで「時」を設定し、そうならないことに悲憤する。「はからい」とは、そのような自分の思いによって過去や未来を設定し、自分の都合にあわせて、世の中を見ていこうとしていることであると知られる。
 
 こうした「はからい」の問題は、過去の行為の積み重ねから将来を予測・設定し、そこから自己や他者の分析をして、ランク付けをするということに繫がるのではないだろうか。それによって、人を排除したり、また排除されたりしているのである。
 
 『歎異抄』は、親鸞の「つねのおおせ」として、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(聖典第二版七八三頁〔初版640〕)との言葉を伝えている。「劫」とは極めて長い時間を表す言葉である。親鸞は、自己の念仏申す背景には、「五劫」という我々の思いを絶するような時間の長さをかけて思惟された弥陀の本願があることを述べた。そうした思いもおよばない長大な時間をかけて、現在の我が身の上に念仏は起こるのである。念仏は、私たちの計測できる時間、はからいによってとらえるようなものではないことが表されていると言えよう。私たちの過去の積み重ねや、能力の有る・無しの違いなどとは無関係に、誰もが平等に念仏の救済にあずかることが示されているのである。
 
 親鸞はつね日ごろ、この「五劫思惟の願」を繰り返し確かめ、案じていたのである。「五劫」とは、時を表す言葉であって、しかも我々のはからいでとらえられるような時間ではない。そこに、念仏は私たちの生きる時間において発起しつつも、そうしたはからいを破っていくような意味があることが示されているのではないだろうか。
 
 大切なことは、自分がどれほど時間を制定し、思いはからいによって生きているのかを知らせてもらうことである。その自己における義(はからい)が明らかになるところに、「念仏には無義をもって義とす」との言葉が響いてくるのである。


(『ともしび』2024年12月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)


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